ギュスターヴ・ギヨームの言語論?

フランスのちょっと異質な言語学者だというギュスターヴ・ギヨーム(Gustave Guillaume, 1883-1960)。文脈はそれぞれ別なのだけれど、このところその名前を何度か聞く機会があって、なにやら興味を持つようになってきた。たとえば昨年秋に少し読んでいたラスムス・ウーギルトの『テロルの形而上学』。これの第一部の末尾あたりで、ギヨームの言語論が紹介・援用されている。それによると、その第一の特徴は、スピーチアクトの考え方にアリストテレスの現実態・潜在態の議論を絡めているところにあるという。講義録からの例として挙げられているのだけれど、たとえば具体的な発話としての「表現」と、その潜在状態である「表現性」とを区別しているのだとか。両者が合わさって、言語活動の「一性」(全体性)が得られるということなのだけれど、この本の著者はテロリズムについて語られる「テロル」というものが、そうした現実態としての表現、潜在態としての表現性を合わせたものを超越する、なにがしかの余剰部分をなしていると見る。それは一種のゼロ記号でありながら、同時に余剰記号でもあるようなものだとして、この著者はギヨームの言語論の枠を越えた部分をテーマ化しようとしている(のだとみずから主張している)。うむうむ、これはなかなか面白そうだ。ギヨームを一度読んだ上で、再度この部分を読み直してみたいと思う。またギヨームはアンリ・マルディネなどにも影響を与えているそうなので、その筋からのアプローチも注目されるところだ。そんなこんなで、これはもうギヨームの実際のテキストを見てみるしかないでしょ、という感じ(笑)。

ニコラ・ド・クラマンジュ

断絶と新生:中近世ヨーロッパとイスラームの信仰・思想・統治ほとんどザッピング的に目を通しているだけだけれど、神崎忠昭編『断絶と新生:中近世ヨーロッパとイスラームの信仰・思想・統治』(慶應義塾大学言語文化研究所、2016)という論集を眺めているところ。イスラム、中世、ルネサンス以後と、多岐にわたるトピックを集めている。それらを貫くのは、表題がいう「断絶と新生。つまり、それぞれの時代の断絶的な状況をどう乗り越えていくのかということが中心的な主題になっているようで、五年前の震災が一つのきっかけとなって編まれた一冊ということらしい。中でも個人的に興味深いのは、編者自身による論文「時代の分かれ道で−−ニコラ・ド・クラマンジュの聖書主義」(pp.87 – 114)。クラマンジュ(Nicolas de Clamange)というのは15世紀前半に活躍したフランスの人文主義者なのだそうで、ピエール・ダイイの弟子でジャン・ジェルソンの友人だったという人物。この二人はどちらも教会改革を唱え、後の宗教改革の先駆とも見なされる人々だが、このクラマンジュはそれらに比べると影が薄いのだそうだ(実際、寡聞にして知らなかった)。でも、より隠修士的な色合いが強く、病弱で本の虫だったなんて、なにやらとても面白そうな人物像じゃないの、と思ってしまう(苦笑)。論文では終末論的な著作や聖書研究などが簡単に紹介されている。うーん、こうなると、この人物のもっと詳細なモノグラフが読みたくなってくる。あるいはダイイやジェルソンあたりと抱き合わせでもいいから、一冊フルに使って論じていただきたい気がする。

ルターの提題の「あわい」

まだ序章を見ただけだけれど、思うところあって、松浦純『十字架と薔薇―知られざるルター (Image Collection精神史発掘)』(岩波書店、1994)を見始めているところ。これは宗教改革の旗手ルターの評伝。刊行年は少し古めになってきているが、まだまだ見どころ満載の一冊、という感じだ。序章では、九五箇条の提題に絡む当時のドイツ教会の情勢とルターの動きを、「パラドクサ」というキーワードで切りとって見せている。ポイントとなるのは、当時のヴィッテンベルクでは、ルターの講義が発端となって、アウグスティヌスへの回帰の動きが大学ぐるみで生じていて、そのために公の討論が求められ、ルターの提題もそのために記されたのだという点(p.17)。結局討論は行われずじまいとなったわけだが、九五箇条の提題はとりたてて特別な位置づけを与えられていたわけではないという。それが広まったのも、また宗教改革の発端になったのも、実はルターの意図したところではなかった(と、本人も述べている)(p.18)。とはいえ、一般にその直接の問題をなしていたとされる贖宥状頒布の問題ですら、提題の単なる個別問題だったのではなかったといい、包括的な改革の議論から考え抜かれていたという点で、宗教改革が改めてルターの意図した改革の線上に位置づけられる、とも解釈できるという(p.19)。この両者の逆説、あるいは齟齬のあわいの部分に分け入っていこうとする読みが、ここで目されているのは明らかだ。様々な目配せと繊細な文献の突き合わせを要する細やかな作業が予想されるけれど、そのような読みが面白くならないわけがない(かな?)。

語りの階層

Memorabilia. Oeconomicus. Symposium. Apology (Loeb Classical Library)このところ、連休から翌週末は野暮用で田舎へと、なにやら小忙しく動いていた。そろそろ落ち着いて見たり読んだりしたいところ。ま、それはもうちょい先かもという感じだが……。それはともかく、前にもちょっと触れたように思うけれど、このところクセノフォン『家政学(オイコノミコス)』をぼちぼちと読んでいる(Loeb版:Memorabilia. Oeconomicus. Symposium. Apology (Loeb Classical Library))。家というかむしろ地所の管理をどうするのがよいのかという問題をめぐるソクラテスの対話篇だ。まだ三分の一程度のところだけれど、農業礼讃といった趣があってなかなか興味深いテキストだ。語られる対話が入れ子的に階層をなしているのも興味深い。プラトンの対話篇でも気になったことがあるが、ここでは3つの層ができている。まず、本来のソクラテスとクリストボロスとの対話がある。これが地になって(その対話の中で)、今度はソクラテスが、自身とイスコマコスとの対話を語り出す。すると今度はその中で、イスコマコスが妻との対話を回想するシーンが語られていく。うーむ、ここでは4層めはさすがになさそうだが、語りの階層としてありえなくはないかなという気もしなくない。何か、そういう4層めにまで入る事例はあるだろうか、というあたりがちょっと気になっている。

アウグスティヌス主義とエピクロス主義

経済学の起源: フランス 欲望の経済思想米田昇平『経済学の起源: フランス 欲望の経済思想』(京都大学学術出版会、2016)を見始めているところ。まだ全体の3分の1程度だかけれど、すでにしてこれはなかなか面白い。近代経済学の祖といえばアダム・スミスだけれど、そこで展開された諸テーマ(自由主義、レセ・フェールなどなど)は、それに先だって17、18世紀のフランスの思想に見出されるという。そのベースとなったのはジャンセニスムに代表されるアウグスティヌス主義。けれども、ジャンセニスムの人間観は現世の人間をネガティブに捉えるのが特徴だったはず。それがどのように世俗の財の追求を肯定するように転換したのかはとても興味深い問題だ。同書では、ポール・ロワイヤル修道院のピエール・ニコル(1625 – 95)、ジャンセニスムの影響を強く受けた後に法曹界に生きたボワギベール(1646 – 1714)、『蜂の寓話』で知られるマンデヴィル(1670 – 1733)などを通じて、神の意志を通じて現世での人間の営みをポジティブに捉える議論が浮かび上がっていく様を追っている。それにしても、このネガからポジへの反転にはどこか「腑に落ち無さ」のようなものがついて回る。同書の著者も冒頭で、ガッサンディなどに代表されるようなエピクロス主義と、上のアウグスティヌス主義との邂逅について示唆しているけれど、まったく異なる両者の出会いというのはやはり気になるテーマだ。ストア派を共通の敵として合一へのうねりが生じた?うーむ、そのあたりには微妙な違和感のようなものが漂い続ける気がするのだが……?