エックハルトとアヴェロエス

D'averroes a Maitre Eckhart Les Sources Arabes De La Mystique Allemande (Conferences Pierre Abelard)エックハルトは長いこと神秘主義の伝統、あるいはそうした括りで捉えられてきたと思うのだけれど、そのあたりに多少とも異義を差し挟んでいる一冊を見始めたところ。クルト・フラッシュ『アヴェロエスからマイスター・エックハルトへ』(仏訳版)(Kurt Flasch, D’averroes a Maitre Eckhart Les Sources Arabes De La Mystique Allemande (Conferences Pierre Abelard), Vrin, 2008)というもの。フラッシュは中世哲学の碩学で、1960年代からラテン・アヴィセンナ、ラテン・アヴェロエス、マイモニデスのリプリント版や、フライブルクのディートリッヒの校注本などの編纂に携わってきたという人物。邦訳ではニコラウス・クザーヌスとその時代』(矢内義顕訳、知泉書館、2014)がある。で、今回のこれは、もとは2005年のソルボンヌでの講義で、それを起こした仏語オリジナルということらしい(ちなみに日本のアマゾンの情報では600ページ超とか記されているけれど、実際には200ページほどの本)。同著者にはドイツで2006年に出版された同じテーマでの著書(Meister Eckhart: Die Geburt der “Deutschen Mystik” aus dem Geist der arabischen Philosophie, Beck C. H. , 2006)があるけれど、その直接の翻訳ではないとのこと。

まださわりを見ただけれだけれど、これはなかなか期待できそうだ。19世紀にエックハルトが再発見された際、当時はまだラテン語著作が知られておらず、研究者も大半がプロテスタント系のゲルマン諸語の研究者だったという。1880年にハインリッヒ・デニフレがそのラテン語著作を見出し、1886年に編纂するも、当時はすでに「神秘主義」という冠が定着してしまっていたという。つまり、スコラ学に対立するものとして、さらにはプレ宗教改革の文脈で捉えられていたということらしい。けれども、とフラッシュは言う。エックハルトには「恍惚的ビジョン」があるわけでもなく、神への直接的接近という内的体験もなく、著作は議論に満ち、聖書の注解などを残していて、新しい表現は随所に見られても、全体としてはキリスト教伝統の教義にはるかに近い。これのどこが「神秘主義」なのか、と……。もちろんエックハルトの教説はどこか異質ではあって、教会側からの糾弾を受けたりもしているわけだけれど(1329年)、そのどこか異教風な神学は、実は「神秘主義」の括りとはまったく別に、確固たる足場の上に築かれている、というのがフラッシュの見立てで、その聖書解釈の特殊な様式がどこにあるのかを改めて探らなくてはならない、と主張している。で、その基盤をなしているのがアリストテレス思想であるとして、アヴェロエス、アヴィセンナ、マイモニデスなどの、アリストテレスの異教的解釈の絡みで探り直そうとしている。とくにアヴェロエスについては、いわゆる「アヴェロエス主義」の誇張・色眼鏡を一端脇にどけ、ラテン語訳のアヴェロエスとエックハルトとの照応を検討しようとしている。さて、その結論は……?