前回取り上げたルカ・ビアンキ『「二重真理説」史のために』(Luca Bianchi, Pour une histoire de la “Double Vérité” , vrin, 2008)から再び。同書の第4章(最終章)はとくにイタリアの16世紀を取り上げている。イタリアは実に特徴的だ。13世紀に禁令が発せられたフランスのパリ大学などとは違い、同時代のイタリアの大学には神学と哲学の対立関係はあまり見られない。それは一つには学問分類の違いがあったからだという。イタリアの場合、自由学芸の教育は神学のもとではなく、伝統的に医学のもとに従属していたのだという(神学は大学機構の中で、どちらかといえば周辺に追いやられていたらしい)。ところがやはりそちらにもその後は紆余曲折があって、15世紀末か16世紀にかけて、「信仰に反する」議論への反論が重要な問題として再浮上する。
とくに重要なのは、ラテラノ公会議での決議を受けて1513年に出されたレオ10世の教皇令『Apostolici regiminis』。霊魂の不滅という教会の教義を擁護したとして有名な教書だというが、これにはたとえば、教会関係者が文法と論理学を学んだ後、哲学(と詩学)の研究に専念できるのは、5年の神学と教会法の教育を受けた後でなければならない、といったことが定められているという。この教書の成立の背景には、パドヴァやボローニャでの「アヴェロエス派」の教師たちの教えがもたらした「状況」があったとされ、それまでの教会側からの大学教育への不干渉の伝統は、この教皇令によって覆されることになる。とはいえ、その教皇令は確かにその後反復的に使われていくようではあるけれど(1517年のフィレンツェ公会議など)、霊魂消滅の可能性を説いたポンポナッツィの『霊魂不滅論』(1516年刊、つまり上の教皇令から3年経っていない)の登場のように、その実際の効果・影響は、少なくとも16世紀前半に関しては比較的小さかったという。もっとも、当時の論者たちのいわば「自己規制」のようなものは、じわじわと広がっていくようだ(同書では様々な論者の名が挙げられているが、ここでは割愛)。
ところが16世紀後半に再び転機が訪れるという。検邪聖省ができ(1542)、トレント公会議が開かれ、禁書目録が公布される(1559)といった動きの中で、教義からのあらゆる逸脱の防止と弾圧がなされるようになっていく。けれども、二重真理説的なものの流れが完全に断たれるわけでもなく、たとえば17世紀のガレリオ裁判で教義的正当性の論証を担当したうちの一人、イエズス会士メルキオル・インコフェル(Melchior Inchofer)は、裁判と同じ1633年に刊行した著書において、基本的には教会教義を正しいとしながらも、地動説を支持する見解の存在にも触れ、また結論部では、地動説に絡んで二重真理説を主張するかののような驚くべき姿勢を見せているという。