新刊訳書 – 今度は戦争論!

敵をつくる―〈良心にしたがって殺す〉ことを可能にするものアマゾンに書影が出たので、記念に宣伝しておこう。翻訳の新刊がようやく出た。ピエール・コネサ『敵をつくる―〈良心にしたがって殺す〉ことを可能にするもの』(拙訳、風行社、2016)。なんと今回は戦争論。コネサは本邦ではほとんど知られていないと思うけれど(ル・モンド・ディプロマティック掲載の論考が、雑誌媒体やネットでいくつか訳出されている)、以前はフランス国防省の研究員でもあったというその道のプロ。同書は平和主義の本ではなく、帯にもあるように、戦争にいたるイメージ領域(つまりこの場合なら「敵視」の心理状態とそれを取り囲む諸々の具体物)がどう構築されるかを分析しようというエッセイ(学術論文的なものではない)。現状認識としていったん戦争なるものの実在を受け容れるところからしか話は始まらないわけだが(その意味では、同書は左派的でも右派的でもない……というかある意味両派的?)、戦争を支えるイメージ領域が構築されているものであるならば、その脱構築も可能なはずだとして、戦争回避への方途をも検討してはいる。とはいえ、当然ながらそれはそう簡単な話にはならないわけで、さしあたり、構築過程の分析、あるいは構築される「敵」のイメージの類型論が中心となる。抽象論に向かわず、リアルポリティクスに目配せしているところなどが読ませどころか(多少とも随所に事項の重複などはあるのだけれど)。というわけで、ある種の党派的なものを越えて戦争について考えたい向きにはぜひお薦めだ(と訳者が言うのもなんだが)。お楽しみください。

アリストテレスと「無限」

無限  その哲学と数学 (講談社学術文庫)以前さわりを少し読んだだけで積ん読になっていた、A.W.ムーア『無限 その哲学と数学 (講談社学術文庫)』(石村多門訳、講談社、2012)を通読しようとしているところ。原著は1990刊。古代ギリシアから現代にいたるまでの「無限」にまつわる思想の展開を追ったもので、哲学史と数学史が交差する興味深い一冊。前半は思想的な通史のまとめ、後半は現代数学での無限の解釈についての概観になっている。前半部分はまた、大きく古代ギリシアから中世・ルネサンス(扱いは小さいが)までと、近世以後とに分かれる感じだ。前半部分の前半、つまり全体の4分の1で主役となっている(つまり割かれているページが多い)のは、なんといってもアリストテレス。プラトンとそれ以前の古代ギリシアの無限論では、無限はつまるところ事物の構造の基礎をなしているという考え方がある程度「共有」されていたというが、それらに対して、そもそも現象と実在の区別を否定するアリストテレスの場合、もしその共有された考え方を保持するなら、無限を時空間の場面において理解する必要に迫られることになる。つまり自然の中に無限なものが存在するかどうかが重要な問題となった、という。また、アリストテレスは無限を「通過できない(終わりに達することができない)もの」という(曖昧な)形で定義し直す。著者によれば、まさにこれは数学的無限の初の特徴づけだったという。

では自然界にそのような無限なものは存在するのか。アリストテレスは自然界には「何も無限なものは存在しない」との立場を取るのだが、そこにはジレンマもあって、時間の無限の分割可能性、物質の無限の分割可能性、自然数の連続や空間が無限であるという数学的真理などが立ちふさがった。で、それらへのアリストテレスの対応策として出てきたのが、有名な「無限は可能的には存在するが現実的には存在しない」という考え方だという。これは、「すべてが同時にそこに存在できはしないという意味での無限」の言い換えでもある。この可能的/現実的の区別はなかなか秀逸で、時間や空間が分割において無限であることはこれで一応認めることができ、数学で仮定される空間は、現実の空間がどんなものかとはおよそ関係がないとすることもできる。無限を形而上学的概念(統一体とか全体とか)に仕上げる旧来の伝統を否定することもできる。けれどもそこには問題もなお残されている、と著者は言う。過去からの時間の流れが、今この時点で完了している場合についてはどう考えればよいのか、という問題だ。過去の時間は加算によっては無限であると考えられるけれども、何かが完了した現在という場合、その完了に至った過去は通過してしまっているではないか、と……。

この問題や、上の可能的/現実的の区別の緻密化が、中世からルネサンスにおいても継承されていくわけなのだけれど(たとえばビュリダンやリミニのグレゴリウスによる、自義的無限と共義的無限の区別など。これなどはまさに可能的/現実的の区別を精緻化したものと見なすことができる)、同書ではそのあたりはごく簡単に触れられているだけだ(だからといってポイントが押さえられていないわけではないが)。それがちょっと残念かも。前半部分の後半は、今度はカントが主役に躍り出てくるようだ。

「複数世界」

複数世界の思想史これまた読みかけだけれど、長尾伸一『複数世界の思想史
』(名古屋大学出版会、2015)
を見ているところ。複数世界、と言っても、これは可能世界論の話というよりは、近世の天文学の刷新によって生じた、星が生物の住処でしかも無数にあるというという新しい世界観(人間だけが特権的な被造物であるという単一世界論が崩れた時代の)の話。どちらかといえば自然学系、科学史的な話だ。確かに言われてみると、天体には生物が棲まうという考え方の歴史的位置づけ(そういう考え方がどのように、どこから生じてきたのかという問題)を取り上げた議論は、これまであまり見かけたことがない。その意味ではなかなかに貴重な研究。主に17世紀から18世紀を扱っているようだけれど、その手前の前史についても目配せしている。

その前史部分(第二章)では、そうした複数世界論は実は古代からあった、ということが論じられている。ただ、著者はそこで連続の相をとりわけ重視しているため、形而上学的な複数世界の可能性(神の創造性に絡む「パラレルワールドはありえるか」といった議論で、その肯定側としてとくにオレームやビュリダンなどが挙げられている)と、自然学的な複数世界(クザーヌス以降の、単一ながら無限であるとされる空間に他世界があるという議論)とがどこか地続きであるかのような議論になっている印象なのだが、個人的にはむしろそこに断絶線を見るほうがよいのではないか、という気がする。霊的なものとしての天体が「棲まう」場として天空が層をなしているといった古代からの世界観(中心にはもちろん人間世界がある)は、他世界を含む中心をもたない空間という世界観とそのまま直結できない、あるいは後者は前者からそのままでは発出しない、と思われるからだ。けれどもその場合、では後者の世界観はどのように析出もしくは産出されていったのか、というとても興味深い問題が浮上してくる。ある意味、そういう問題提起を投げかけてくるのが同書の第二章という印象だ。クザーヌスおびその周辺はちゃんと読まないと、という気にさせる(個人的に、以前にもそう言っていたような気がするが、まだちょっと余裕がない)し、またクザーヌスの次の世代にあたるコペルニクスについても同様。著者はコペルニクスの「知的冒険」について、それを突き動かしたのは、アレクサンドル・コイレが主張した新プラトン主義やヘルメス文書ではなかったかもしれない、と述べている(p.46)。うーむ、このあたり、なかなか面白そうだ。

余談ながら、同書の主要部分を占める17世紀と18世紀についての歴史的跡付けについては、研究リソースとして専門的なデータベースの使用が言及されている。17世紀はEEBO(Early English Books Online)、18世紀はECCO(Eighteenth Century Collections Online)というのがあって、英語文献を中心に全文検索できるらしい。長い年月をかけて古書を猟渉するのに代わり、入手も困難な書籍が簡単に閲覧できるという意味で、これはなかなか画期的だ。研究の中味も当然変わっていくのだろう。マイナーな書籍や著者をも議論に引き入れることが可能になる反面、それだけに、こうしたデータベースを丹念に、網羅的に読み渉っていくこともまた、新たな、相当に骨の折れる作業になるのだろうな、と……。

【再考】アヴェロエスと「思考」

アラン・ド・リベラの『主体の考古学』シリーズ。まだ個人的は3巻目を読んでいないのだけれど、すでにぼちぼちとそれを批判したり、その考察を深めたりするような議論も出てきているようだ。その一つが、ジャン=バティスト・ブルネの論考「アヴェロエスにおける思考、付帯的名称、変化:アリストテレス『自然学』七巻三章の解読」(J.-B. Brent, Pensée, dénomination extrinsèque et changement chez Averroès: Une lecture d’Aristote, Physique VII, 3, Archives d’Histoire Littéraire et Doctrinale du Moyen Âge, 82, 2015)という論考。以下、主要論点についてのメモをまとめておこう。

リベラの『主体の考古学』のメインテーマの一つとなっているのが「呼称の交差(chiasme de la dénomination)」の問題。「思考」という語が、対象としての「思考内容」から、主体としての「思考する者」へと、どのように移行(転移)したのかということなのだが、リベラはこれを二段階の激変として捉える。一つめは「対象(外的)から思考内容への転移」。そこでは思考する主体そのものは変化しないが、何か別のものが変化した、とされる。そして二つめがアヴェロエスの到来で、それにより「思考内容から思考する者への転移」がなされたのだ、と。

論考は、とくにこの二つめの激変について、アヴェロエスに焦点を合わせつつ改めて検証し直している。そのために、まずはアリストテレスの「変化」概念に立ち返り、さらにそれについての亜アヴェロエスの注解を検討する。アリストテレスは認識する者は認識によって質的変化を被らないが、他方で何か別のもの(「魂の感覚的な部分」)が変化すると記している。学知の場合もそうで、学知を獲得する主体自体は変わらないが、一方で何かが存在するとき(現働化するとき)にその学知は生じる、としている、と。アヴェロエスはこれを、認識者そのものと、認識する部分との区別で説明づける。認識者そのものは変化しないが、認識する「別の部分」は対象およびその像を受け容れる限りにおいて「変化」を前提としている。人間が思考するときには、その身体とそれに関係づけられている下位の魂が変化するが、一方で本質を概念的に認識する知性そのものは「変化」しない、と。

アヴェロエスはまた一方で、「変化」の意味を下位区分することで、上の「変化」を別様に解釈してもいるようだ。変化と変化それ自体の目的との区別、さらには本質的変化と付帯的変化の区別を重ね合わせることで、付帯的変化(瞬時かつ不可分の)は、本質的変化(経時的かつ分割可能な)の目的をなすと説明づけているのだという。ロウソクで部屋を照らす場合、そのロウソクをもってくるなどの動きは経時的なものだが、それが到着して目的を達すること、すなわち部屋を照らすことは、瞬時になされ、しかもロウソクをもってくる前段の動きとは異質な変化となる。では人間の思考の場合はどうか。そこでもまた、それら変化の区別は有効で、結局、アヴェロエスは自身の離在的知性論に即し、思考とは複合的な動きとして人間に与えられていて、身体に影響する実際の変化(本質的変化)と、その目的をなし、付帯的呼称として知性を述語付ける付帯的変化から成る、と考えているのだ、と。ここから付帯的呼称の交差現象が起きるまでは、あともう少しでしかない……。一方、いわゆるアヴェロエス主義で言うような、人間と知性の存在論的分離(離在論の急進的な解釈)の図式では、思考が人間においてなされないということになってしまい(あるいはまた、知性が人間の本質ではないということになってしまい)、以上のような変化の構図が当てはまらない。アヴェロエスは(アリストテレスそのものもだが)実はもっとはるかに複雑なのだ、というわけか。

ジョルダーノ・ブルーノの魔術観

De la magie (nouvelle édition)このところ久々に、モノ(技術的対象)と人間との一種の混成状況を扱うものを少し読んできたが、そこで問題になっているのは、そうした混成状況がある種の操作性だったり倫理だったりを纏うという、脱人間論(機械化)的な議論と、それでもなお人間が主体としての揺るぎない地位を占めているという議論との、ある種の揺れ動き、あるは往還運動であるように思われる。で、言わずもがなだが、この議論には何度も繰り返されてきたような既視感がある。ルネサンス期あたりの魔術の関わりなどはまさにその一つではないだろうか……というわけで、16世紀の魔術論をジョルダーノ・ブルーノの小著『魔術について』(De Magia)を、手っ取り早く仏訳版(Giordano Bruno, De la magie (nouvelle édition), trad., Danielle Sonnier et Boris Donné, Éditions Allia, 2009)で読む。この小著は、ブルーノの生前には発表されず、19世紀末になってようやく日の目を見たものだそうで、ブルーノの主著である対話篇などとは趣きが異なり、どちらかといえば私的なメモといった風のもの。中味は、いわゆる魔術書ではなく、なんらかの秘伝や術が解説されているわけではない。むしろその背景をなす哲学的・自然学的な議論が大半を占めており、その個々のトピックは多岐にわたるわけだけれど、基本的には、主体の他者への働きかけが物質を介してなされている(物質だけでは他の物質に働きかけえない)という考え方が読み取れる。一方で形相が作用の主体をなすという点も揺るぎない。物質を結びつけるシンパシー、連携、結合などはすべて形相からもたらされる、と。いくぶん怪しげな部分(悪魔への言及など)を差引くならば、これはまさにモノと人間の混成状況での操作性論・倫理学の先駆け的なものとしても読めるというわけだ。

巻末には仏訳者らによる解説があるのだけれど、そこではブルーノにとっての同書が、マルクスにとっっての『フォイエルバッハに関するテーゼ』にも匹敵するものではなかったかとの指摘がある。つまり、純粋な理論による世界の秩序の考察を、世界を変えるための真の活動でもって乗り越えるための、手段として魔術があった、というわけだ。とはいえ、それはあくまでマニフェストなのであって、同書で展開する魔術論は抽象的なものにとどまり、魔術的なものがもたらしうる宇宙の霊的な連続性の証拠にこそ、ブルーノの関心はあったのだろうとも述べている。このあたりの話の是非はすぐには判断できないので、さしあたり置いておくけれども、印象としてはそれが「観想的魔術」(G.ノーデという研究者の用語)だったという解説は妥当のようにも思える。

また余談になるけれども、個人的には、魔術(いわば技術的介入)の操作がもたらすモノのシンパシーないし調和の喩えとして、楽器の話が出てくるのも興味深い。狼はロバや羊にとってのおそれをなす対象だが、ロバの皮を張った太鼓は狼の皮を張った太鼓(!)よりも音の厚みでまさっている、とか、羊の腸を張ったリュートは、狼の腸を張ったリュート(!)とは、調和した音を生み出すことができないとか……云々。狼を用いた太鼓やリュートがあったとは思えないけれど(?)、表現として面白い。これまた解説によると、少し時代が下ってからのディドロも、同じようなレトリックを駆使しているといい、人間ほか生き物全般を振動する弦に喩え、「魂と感覚をもったチェンバロ」(18世紀末なのでリュートは下火だった)などと表現しているのだとか。これもちょっと要確認かな(笑)。ディドロの唯物論も気になるところではある。