ハイブリッド倫理学へ

技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)これまたざっと前半を見ただけだが、なかなかの好著。ピーター=ポール・フェルベーク『技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)』(鈴木俊洋訳、法政大学出版局、2016)。原著は2011年刊。著者はオランダの技術哲学者とのこと。技術哲学と倫理学の結合を目論むというもので、ここでも人間とモノを一体・ハイブリッドとして捉え、それを倫理(道徳性)の主体もしくは担い手として据えようと提唱している。というわけで、これもまた一種のマニフェスト本だ。けれどもその筆致はとても手堅く、安易に横滑りなどはしていかない。それが好印象をもたらしている。主要な着想源の一つにはラトゥール(「道徳性は事物にも宿る」)があり、さらにポスト現象学もある(主客の二分法からの脱却)。技術が媒介的な存在であるとする点で、先に挙げた昨今の実在論などからすれば媒介主義的ということになってしまうのかもしれないが(現象学がベースにあることからしてもそう)、全体的な流れとしては、そうした主客の二分法を逃れ、技術的産物と人間とが渾然一体となった世界観を提示し、そこから再び倫理学を再構築しようとしているあたり、ある種同じ方向性を向いている(旧来の学知から同じように距離を取っている)ように思われる。

で、そうしたハイブリッドの考え方を突き進めていくと、当然ながら従来の諸概念の解釈にも様々な変更が必要になってくる。まさしくそこが読みどころ、考えどころという感じだ。同書の議論の途上では、たとえば「自由」の再定義が提案されている。自由とは任意の規定から逃れるということなどではなく、「自分を決定づけているものに対して関与する能力」(p.106)であるとされている。人間の「実存の居場所」において、「物質的文化によって実存が共形成される仕方に関わる」(同)ことだというわけだ。このスタンスはまた、フーコーの議論を敷衍したものであることが、第4章で克明に示されている。

【基本】トマス・アクィナスと「非在のもの」

トマス・アクィナスの真理論が「実在」をもとにしていることはどこかで読んだ気がするのだけれど、不在の事物、存在しない事物についての真偽問題などはどうなっていたっけな、と思い、少し前に確認しようと思ったものの、その後忘れていた(苦笑)。で、たまたま、まさしくそういう論考に出会う。グロリア・ワッサーマン「非在のものの真に関するトマス・アクィナスの論」(Gloria Wasserman, Thomas Aquinas on Truths about Nonbeings, Proceedings of the American Catholic Philosophical Association 80, 2006)。トマスの場合、知性にとっての真とは、事物の実在に結びついている。命題が知性にとって真であるのは、その項が実在の事物を指している場合だというわけだ。けれども非在のものを扱った命題が真であるという場合もある。その場合の命題が真であることは何によって担保されるのか。これをトマスの『真理について』を読み解くことで解決しようというもの。それによると、非在のものを、存在が否定された場合や、なんらかの欠如を伴った存在の場合と定義づけることによって、トマスはそれがやはり当の事物の実在(否定されない、欠如のない)を前提としていることから、その真偽は当の事物の実在によって規定される、と考えている。

でも、これだと完全な虚構物のような場合(一角獣とかキマイラとか)は、真偽が担保されない、そもそも真偽が問題にされえないのではないか、ということになりそうだけれど、その場合についてもトマスは、同じラインに沿った回答を用意しているようだ(と論文著者は読み解く)。つまりそうした虚構の事物についても、それが実在するものを基礎としている(一角獣は馬を基礎にしているし、キマイラも混合する動物を基礎としている)限りにおいて、同じくその実在によって規定されうるのではないか、と。このあたりはテキストベースに寄りながらも、少し論文著者の推論も入っているようなのだけれども。いずれにしてもその背景には、命題を真にするものは、神の外にはない、神の恒久的な知性のうちにしかない、という神学的確信がある。

ホワイトヘッドと「思弁的実在論」

モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何かこれも最近出たばかりのスティーヴン・シャヴィロ『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』(上野俊哉訳、河出書房新社、2016)。前回のエントリと同じく実在論ものではあるのだけれど、こちらは例の「思弁的実在論」がらみの話。先のドレイファス&テイラーの本が、主体と客体のはざまの問題を取り上げ、前概念的なレイヤーを考えるところにとどまっているのに対して、シャヴィロはメイヤスーやハートマンなどと並んで、ホワイトヘッドとダシに、はるかに先にまで行き着く思弁的実在論の擁護を試みる。ま、それが成功しているかどうかはまた別の話なのだけれど。

主体・客体のような二分割は、当然ながら人間とそれ以外といった分割に重なり、結果的に人間中心主義になるわけなのだけれど、ここでの基本スタンスはその中心をずらしていって、結局どこにも中心はないというところにまで行く。果てはモノそのもの(生物と非生物の垣根も取っ払われて)にある種の主体性、内面性、あるいは外部とのやり取りを認めるところにまでいく。一見して、これがIoTなどの概念を先取り(後追いかもしれない?)して敷衍していることがわかる。けれどもそのような議論の文脈で取り上げられているホワイトヘッドの「モノ」の議論は、それとはだいぶズレている印象なのだが……。個と全体とのコスモロジカルな連関を主眼に据えている(トップダウン的に?)ように見えるホワイトヘッド(個人的に読み囓り程度なので、もしかしたら違うのかもしれないけれど)に対して、思弁的実在論のほうは「モノが他のモノを対象として扱う」というような言い方で、インタラクションのレイヤーを考えようとしている、というか、そういうレイヤーを考えたいとの希望をひたすら語っている印象を受ける(ボトムアップ的に?)。けれども、これはどうなのか。やはりそういうインタラクションは、どこか有機体と無機物との複合体のような状況でしか考えられないのではないか、結果的に有機・無機の二分法は温存されてしまうしかないのではないか(個人的にはシモンドンあたりもそんなふうだったと思うのだが)、仮に無機物が有機体を誘うというアフォーダンス的な面があるのだとしても、だからといって無機物は真に主体化できるのか、モノ対モノの(モノが対象であると同時に主体にもなる)一元論的な関係に帰着させることには無理があるのではないか……などなど、多少とも古いタイプの読み手としては、そのあたりの思考回路から出られず、どこか遠い目でそうした議論を見ているしかないのだけれど……。

うーん、それにしてもここではホワイトヘッドが本当にダシでしかないのもちょっとなあ……(笑)。というわけで、個人的にはホワイトヘッドを改めてちゃんと読もうかと思っているところ。