前回取り上げたルカ・ビアンキ『「二重真理説」史のために』(Luca Bianchi, Pour une histoire de la “Double Vérité” , vrin, 2008)から再び。同書の第4章(最終章)はとくにイタリアの16世紀を取り上げている。イタリアは実に特徴的だ。13世紀に禁令が発せられたフランスのパリ大学などとは違い、同時代のイタリアの大学には神学と哲学の対立関係はあまり見られない。それは一つには学問分類の違いがあったからだという。イタリアの場合、自由学芸の教育は神学のもとではなく、伝統的に医学のもとに従属していたのだという(神学は大学機構の中で、どちらかといえば周辺に追いやられていたらしい)。ところがやはりそちらにもその後は紆余曲折があって、15世紀末か16世紀にかけて、「信仰に反する」議論への反論が重要な問題として再浮上する。
例によって、このところまとまった時間が取れないのだが、空き時間にリュカ・ビアンキ『「二重真理説」史のために』(Luca Bianchi, Pour une Histoire de la “Double Verité” (Conférences Pierre Abelard), Vrin, 2008)を読み進める。とりあえずまだ前半のみ(二章まで)だけれど、これもまた実に面白い一冊。哲学的真理と神学的真理があるといった、中世盛期において糾弾される考え方が、当時本当に広まっていたのかという問題については、その旗振り役だったとされるブラバンのシゲルスやダキアのボエティウスなどの研究が近年進んだこともあって、必ずしも彼らがそうした議論を信奉し教えていたわけではないとの下方修正がなされ、しまいには「それは一種の虚構的な教えであって、中世の論者たちはそんなことを決して教えてはいなかった」との見解でにまで至っているという。でもそう聞くと、これもまた、曲がった棒をまっすぐにしようとして逆に曲げてしまうようなところもなきにしもあらずではないか、というくすぶり感が残りもする。その点を少し詳しく検証しようというのがこの著書だ。
確かにタンピエの1277年の禁令以来、パリ大学などの神学的な教えはある程度一枚岩にまとまった感もあるようだ。ただ著者はそこでちょっと意外な角度から問題にアプローチしていく。まず最初の章で取り上げられているのは、17世紀末から18世紀にかけて活躍した哲学者ピエール・ベールの例。歴史的に、アヴェロエス主義の副産物のように言われている二重真理説を、ベールはなんと宗教改革のルターに帰しているというのだ。で、著者によれば、確かにルターはパリ大学を中心としていた教説、「哲学と神学で、真となるものは同一である(idem esse verum in philophia et theologia」という教説に反対する立場を取っている。と同時に、15世紀の神学者ピエール・ダイイの「真理の協和」理論などを高く評価している。この真理の協和理論の格言「すべての真理はすべての真理と協和する」(omnia vera vero consonant)は、実は13世紀後半以降、『アリストテレスの権威』(Auctoritates Aristotelis)なる当時もてはやされた詞華集によって広く拡散したのだという。もとはグロステスト訳のアリストテレスの文言だというが、この詞華集のせいもあってか、もとの意味はだいぶ曲解されて伝わっているという。本来は、任意の賢者が真理について下す判断が誤っていたとしても、それはその賢者の判断対象が不確かな領域にまで踏み込んでいるからであって、正しい判断さえあれば真理は真として判断されうる、といった二重真理的な意味合いなのだというが、広まったバージョンはむしろ、パリ大学的な、一元論的な真理の格言となっているらしい。この後、1277年の禁令解釈が流転する様子が検討されている。
少し前にストラボン『地理学』の最終巻を一通り読み終えた。あまり精読という感じではなかったのだけれど(字面を追っただけ)、それでもナイルからエチオピア方面まで、地誌、植生、動物、風習、宗教などなど、さながら博物学のような記述がとても印象的だった。で、その勢いで今度は冒頭(第一巻第一章)から見ていくことに(Strabon, Géographie: Introduction Générale, Livre I (Collection Des Universités De France Série Grecque), Les Belles Lettres, 1969)。この冒頭部分もなかなか興味深い。地理学の嚆矢は誰かという問題に、ストラボンは躊躇なくホメロスと即答する。で、さらに興味深いのが、ホメロスによる居住域の記述に関連して、ストラボンがまずはその周辺を取り囲む海を取り上げていること。ホメロスの記述と後代の人々(ポセイドニオス、クラテス、ヒッパルコスなど)のコメントを突き合わせる形で、とりわけ後代の人々を批判したりしながら話は進む(海流の話、海が循環的に連続している話、内海の話……)。そこから詩人論(地理学が博識が必要とされ、詩人こそがそうした博識をもつ賢者とされる)、詩作論(さながらオデュッセイアの地理学的な検証か?)にも接近していく感じで、このあたり、なんの本だかわからなくなるほど。個人的にも、ちょっとこのあたりでいきなりホメロスに寄り道をしようか、なんて思いが沸いてくる。