カントと後成説

明日の前に

このところ空き時間にゆっくり読んでいるのが、カトリーヌ・マラブー『明日の前に』(平野徹訳、人文書院、2018)。まだやっと三分の一の5章までだが、これが決して侮れない力作。ここで提唱されているのは、一言でいうならカントの読み直し。同書がとくに注目し中心課題に据えているのが、アプリオリなもの(先験的なもの)が実は根源的には「獲得されたもの」である、という逆説めいた議論。これがカントの言明としてあるのではなかったか、という問題だ。たとえば認識上のカテゴリーが、カントにおいては、予め備わっている超越論的なものというよりも、獲得されるものとして受け止められ、当時の生物学的知見から借用した「後成説」的に説明されていたりするというのだが、そうなるとアプリオリとアポステリオリの区別、前成説・後成説の区別は、カントにおいては重なり合わないことになり、思考そのものに反・超越論的で発生的な過程があるかのように読めることになる。もっとも、カントのテキスト上のそうした箇所はどこか曖昧な場合が多いようで、多義的な解釈が可能でもあるらしい。この解釈上の重大問題を、同書はカントの諸テキストと同時代以降の研究書を突き合わせながら検証していく。当時の生物学における発生論的知見が、カントにどれほどの影響を与えていたのかも興味深いが、それ以上に、当然ながらこれはカント哲学の根幹にかかわるある種の地雷原でもある。そこをどう回避しうるのか。これはなかなかサスペンスフルな設問だ。

メイヤスーが相関(主体と対象との根源的な相互関与の構造)主義批判を打ち出し、アプリオリな総合以前の「先立つもの」を持ち上げていることに絡めて、マラブーはそうした動きが実はカントのある種の読み方、つまりカントにおける基礎付けの欠如を指摘する傾向を改めて浮き彫りにしていることを指摘してみせる。その上で、そうした読み方のさらに先に思弁的実在論を、やや性急に展開するのが果たしてよいのかどうかを、カントの読み方の「可能性の条件」を丁寧にたどることで検証するというのが、マラブーの基本的モチーフとして冒頭に掲げられている。というわけで、これは古くて新しい問題を改めて捉え直そうとする一冊でもあり、と同時に、思弁的実在論とはまた違う別の道をどこかに見いだそうとする試み・苦行でもあるようだ。それはどういうかたちで立ち上がりうるのだろうか?