今週は各種雑用のせいで、あまり本を読む時間が取れず、マラブー『明日の前に』もほんのわずかしか進んでいない(やっと半分まで)。けれどもそこで取り上げられた比較的最近の遺伝子研究の話(第7章)がなかなか興味深い。2000年代以降になって、また新しい潮流が出てきているということのようだ。要は遺伝子万能説のようなものが後退し、ゲノムがなすのは個体への環境の影響に一定の制限を設け、それに反応する能力を与える程度だという話になってきているということ。遺伝子そのものとは別筋の、ある世代の細胞から次の世代の細胞へと伝えられる遺伝の可能性が開かれているとされ、たとえば植物が季節の変化を細胞レベルで記憶しているとか、マウス実験での食餌制限の差が次世代の子に明らかに影響を残しているとかいう話が紹介されている。遺伝子プログラムの単純展開という説は、今や有機体と環境から構成されるシステムの展開という説に取って代わられてきている、とマラブーはまとめている。環境からのフィードバックを得るための各種バックドア的なものの存在が、遺伝子による決定論の牙城を切り崩しているということだろうか。
人文学もそうだが、科学そのものも諸説の見直しは確実に進んでいるようで、旧来の説をいつまでも保持できない。ただ悩ましいのは、そうした新説・新事実を伝える論文へのアクセスは専門性などが仇となってどうしても限られ、一般向けの書籍なりにまとめられるにはそれなりの時間を要すること。だからネット時代だろうと学際性につきまとう遅れ、哲学が「黄昏に飛ぶミネルバのフクロウ」でしかないという状況は変わらない。あるいはそれどころか、逆にその遅れや隔たりはいっそう増しているかもしれない、とさえ思えるフシもある。
面白いのは、マラブーに言わせれば、前成説と後成説の論争の継承者たちであるそうした科学者たちが、一般向けに書くものの中で、後成説的なものを正面切ってではなく、隠喩的にしか語らない傾向にあるという点だ。後成説は解釈的自由に属するとされ、そこでは解釈のイメージが問題となる。マラブーはある意味健気にも、それがむしろ哲学との対話を開く契機になるかもしれないと語るわけだが、これもまた、哲学ないし人文学固有のアクセスの限定要因に阻まれないとも限らない。学際的な対話はいつになっても険しい道なのか……。