今週は久々にアラン・バディウの講義録から。1984年から85年にかけての『無限--アリストテレス、スピノザ、ヘーゲル』という講義(Alain Badiou, Le Séminaire. L’infini: Aristote, Spinoza, Hegel (1984-1985), Fayard, 2016)。まだアリストテレスを扱った部分(全体の3分の1で、ちょうど84年の分に相当する)を見ただけだが、今回の講義では、一回目の冒頭部分で、バディウが何を取り上げるのかを明快に語っていたりして、とても参考になる。それはつまり、それぞれの論者の哲学が抱えている「袋小路・行き詰まり」(impasse)を見極めるということ。ここでのimpasseは、二つ以上のものが膠着状態になりつつ、その当の二つのものを際立たせる特異点のようなもののことを言うようだ。前に見たパルメニデス論などもまさにそうで、パルメニデスの議論の根底に、存在、非存在、思惟の三項が、断絶しながらも連なるというパラドクサルな場、あるいは関係性を云々されつつも現実的には関係性を結びえない、まさに手詰まりでありながらその三項をそれぞれ成立させるような捻じれを見いだし、それがバディウ独自のパルメニデス論となっていた。今回のアリストテレスについても、同じような手さばきで、今度は存在論における同様の特異点を示そうとしている。
アリストテレスの哲学は、まずは「現にあるもの」に拘るがゆえに、「存在そのもの」に向き合うことができない。論証や必然性に拘るがゆえに、直観や偶然的なものを排してしまう。しかしながら、そうした対立する項、すなわち思惟されないものは、思惟されるものと表裏一体の関係にあり、思惟されないもの、あるいは思惟されるものとされないものとの分別が、思惟そのものの成立を支えることになる。この図式は時間概念にも見受けられる、とバディウは指摘する。アリストテレスにとって時間は運動によってもたらされるものだが、するとその運動そのものは時間の外にあることになる。アリストテレスの言う「運動」は、私たちが思い描くような運動のイメージと、明らかに同じではない。運動は時間の前・後を結ぶ「瞬間」にも重なる。前・後の関係では、前が終わるところはすなわち後が始まるところでもあり、つねにそこには境界が仮定され、それを飛び越える跳躍も仮定される。けれども境界そのものは特異点として、時間の外にあることになる。一方でその動くものは時間の前・後で同じ一つの存在であり続けることから、運動はまた個物の「一性」の理論でもあることになる。
場所についてもしかり。場所は空虚と、やはり特異的な関係を結ぶ。アリストテレスにとっての場所とはすなわち、物体を囲い込む境界であり、いわば物体に限定をもたらすものだ。ここで無限・無限定なものがあるならば、それは場所への位置づけができないということを意味する。何かが無限であるならばそこには一性もなく、したがって運動もない。時間もない。限定があるからこそ、運動があり時間がある。その意味で、アリストテレスにとって無限というものは「存在しない」。けれどもそれは、存在するものの体制(全体)そのものを支えていると言うこともできる。無限とは踏破が不可能であるような空間、同一性と他性とが切り結ぶ弁証法的な場なのだ、と。一見錯綜した話ではあるけれど、要はここでもまた、前面に出ないものが、前面をなす当のものを裏で支えている、という図式だ。逆に、支えるものは出てこようにも出てこられない。自然は空虚(すなわち無限)を恐れるというが、バディウは「空虚もまた自然を恐れる」と述べている。
では後世において、いかにして無限は前面へと「出てくる」ようになったのか。そこにはもとのアリストテレスを曲解し、無限を神的なものに重ねて実体的にとらえた中世キリスト教思想の流れがあり、次いでその自然化があった。かくしてスピノザこそが、われわれを待ち構えているのだ、と……。このバディウ節、個人的には結構盛り上がる。