蓋然論は客観的?主観的?

前回記事のデカルトの懐疑にも通じる話だが、数学的に語ることもできる確率論や蓋然論は、客観的なものと断じてしまってよいのだろうか、という疑問がある……。というわけで、フランスの『カイエ・フィロゾフィック』の18年度第4四半期号(Pensée statistique, pensée probalibiliste (Cahiers philosohiques), Vrin, 2018)を読んでいるところ。これに、論考としては異例というか、ある意味面白い試みの一本が掲載されている。アレックス・ビアンヴニュ「蓋然性の出どころは客観的か主観的か」(Alex Bienvenu, ‘La probabilité a-t-elle une source objective ou subjective ?’)というもの。

あらかじめフィクションとして断った上で、ハンス・ライヘンバッハとブルーノ・デ・フィネッティとの架空の対話を描いてみせている。ライヘンバッハは科学哲学、デ・フィネッティは統計学者で、ともに20世紀前半に活躍した実在の学者たち。両者の間には実際に書簡のやりとりもあったといい、1937年6月にライヘンバッハはアンリ・ポワンカレ研究所での講演会に出、その2年前の同じ時期には、やはり同じ研究所で、数学者エミール・ボレル主催の蓋然性をめぐるシンポジウムにデ・フィネッティが参加しているという。ここから、若干時空を超えて(笑)、二人が直接に対話したらどんな感じだったろうかと、紙上で想像したのがこの論考というわけだ。両者の考え方のエッセンスを、スケッチ風に切りだしてみたという趣意らしい。

ライヘンバッハは、経験論的な事象がもつ蓋然性(発生確率)を一つの「賭け」(判断)であるとしつつ、それは主観的なものではないと論じる。「賭け」そのものは、判断の主体による推論が前提となるので、それは主観的なものだけれど、そうした事象が経験論的に正当なものとされるには、一般化された、非人称的な認識主体であればよく、そうした主体が下す判断はもはや通俗的な意味での主観ではない、というのだ。これはつまり、まだ生じていない事象は不確かではあるけれど、これまでの経験論的な過去データにもとづく蓋然性でもって、その事象の確かさが推定できる(発生確率がなんらかの値に近づくことが、過去データから推測される)場合には、それは確かなものに準じる扱いをすることができ、その意味でもはや主観的なものではなくなる、ということだ。

けれどもデ・フィネッティはそれに納得しない。まず、蓋然性とは発生確率が近づく限界値だとするなら、そうした限界値を想定すること自体が経験論的だ、というのが一点、別様の、より操作的な蓋然性の経験論を定義することも可能だ、というのがもう一点だ。経験論とは観察で検証できるもののことだとするなら、ある命題について賭けを設定することが、その命題の蓋然性を主体がどう評価するかを表すことになる(勝ち金に応じて掛け金をいくらにするかが、発生確率についての「信」の程度を表すように)、というのがその考え方。これはつまり、汎主観論的な立場だということになる。

科学において蓋然性は客観的なものと考えてよいというライヘンバッハと、科学においても、いかに過去データや専門性に支えられていようと、問題となるのは「信」の程度なのだとするデ・フィネッティ。なんとも悩ましい対立だが、案外両者の立ち位置は近いところにあるように思われたりもするし、論文著者の意図もそのあたりにあるように思われる。司会のボレル(おそらくは論文著者の分身)は両者の議論が「経験論」の定義そのものにまで波及することを指摘して対話を締めくくっている。