このところ久々にガレノスものから、『自然の力能について』の第1巻(底本はLoeb版:On the Natural Faculties (Loeb Classical Library), A. J. Brock, Harvard Univ. Press, 1916-2006)を見ていた。というわけでメモ。ガレノスの主著の1つとされるもので、発生・成長・栄養摂取など、植物的(動物も共有する)生命現象とされるもののメカニズムを考察している。第1巻は冒頭からガレノスの基本スタンスが示されていて、それによるとガレノスは、動物は魂と自然本性とによって同時に統治されているものの、植物は自然本性のみによって統治されていると見、動物的特徴をなす発生・成長・栄養摂取を自然本性のみの作用であるとしている。アリストテレス的な植物的魂についての論をある意味否定するかのような物言いになっているところなど、なかなか面白いが、ガレノスの本領はなんといっても観察にもとづく精緻な分析にあり、それゆえにか、他の学派が弄する虚言についてはかなり辛辣かつ執拗に攻撃を加えてもいる。それが第1巻の後半。
後半で主に批判の対象となるのはアスクレピアデスの一派とエラシストラトスの一派。一例として腎臓と尿の関係、つまり尿がいかに尿管を通じて集められるのかについての理論をめぐり、両学派の虚言ぶりを辛辣に批判している。アスクレピアデス派は尿の分泌を気化の作用に帰しているといい、またエラシストラトス派は「自然が虚空を忌み嫌う」という原理を持ち出すのみで、きちんとした説明をしていないという。アスクレピアデスはひたすら虚言を弄し、エラシストラトスは肝心なところを見ずに沈黙してしまう、というわけだ。ガレノスは腎臓こそが尿を濾しているのだということを示し、観察こそが重要だということを改めて指摘する。
メルマガのほうでも少し触れたが、このところ読んでいるのが、アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造 上』(森夏樹訳、みすず書房、2019)。まだ上巻のみだけれど、すでにして秀作の印象。生物学者がアリストテレスを丹念に読み込み、『動物誌』や『動物部分論』など一連の動物学的著作を中心に、その「生物学」としての評価を試み、アリストテレスが何を知っていて、何を知りえていなかったのかを腑分けしていこうとする刺激的な一冊だ。
なによりもまず、その手さばきの鮮やかさが目を引く。上巻を章立て順に追っておくと、まずはその生物学的な取り組みの特徴(観察を中心とし、ときに大胆な仮説へと飛躍していく)、その対象の広がり(現物の観察のほか、旅行者からの伝聞なども含まれている)、解剖学界隈での後世(19世紀など)のアリストテレス再評価とその限界、自然学の原理(その機能的な生物学)の諸特徴、生物の分類学的な試みと限界、論理学との関係性、生体構造の分析(『動物部分論』など)、霊魂論の捉え方(機能的総和としての霊魂)、発生論の特徴(目的論との絡み)……。現代的な視座ももちろん取り入れながら、一方的に限界を言い募るのではなく、当時の自然学的な文脈を様々な側面から浮かび上がらせようとしている。そうした点で好感度は高いが、一方で多少一面的な評価もなくはない印象でもある。
個人的に霊魂論のあたりは面白く読んだ。アリストテレスの生物学的な著作を中心に捉えるならば、それはまずもって栄養摂取の霊魂(植物的魂)として記され、栄養摂取のメカニズムを組織し支配する司令塔のようなもの(心臓とされる)として考察できる。したがってそれは、はるか後世の生気論のような、身体と完全に分離したものではないように見えたりもするだろう。けれどもアリストテレスの霊魂論はそこにのみとどまりはしないし、その基本的スタンスは自然学以外のものも含めた様々な著作からすると、曖昧なまま宙づりになっているかのようだ。魂は身体の中にはないとも言えるし、身体全体に広まっていると言ってもよい。心身の中間領域的な部分は、不問のままに留め置かれる。たとえば感覚的魂においては、外部刺激を受けて感覚器官に生じる心的表象(ファンタスマ)が問題になるわけだけれど、著者も指摘するように、アリストテレスにはファンタスマの機能的・機械論的な説明はない。生理機能の説明はあっても、その先の肝心なファンタシアの内実の説明については、アリストテレスは言いよどんでしまわざるをえない。例として臭いについて挙げられた一例を再録しておくなら、「悪臭を放つものが空気に触れるおかげで、空気が臭覚に対して感じられるほどのものになるのであり、臭いを嗅ぐことは、それによって作られたものの観測ということになるのだろうか?」(p.248)という具合だ。さらにまた、著者は同書において、理性的魂の諸相を事実上取り上げていない。おそらくはそれが、同書が扱う自然学的な領域を超え出てしまうからなのだろう。
Processingの姉妹編というか、派生形のp5.jsでもスクリプトを書いてみたりしているが、練習のためのコードの書き写し(俗にプログラミング界隈で「写経」と称される)で、こんなに書き間違うものかと思うくらいミスが出る(苦笑)。参考書としては、邦語のp5.js本としては現在事実上一択の『Generative Design with p5.js – [p5.js版ジェネラティブデザイン] ―ウェブでのクリエイティブ・コーディング』(ベネディクト・グロスほか著、深津貴之訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2018)を使っているのだけれど、これはプログラムで描かれる図柄がなかなかに美しい秀逸な本。とはいえダウンロードできるソースコードを見ると、章を追うごとに複雑になるのは当然として、徐々にどこか力業っぽくコードをぶん回す感じになってくる。そのため写経するのは苦行をともなうようになる。単なるスペルミスのほか、細かいところの理解不足によるミスなども頻発するが、ミスを誘発しやすい要因の一つに、長すぎる変数名その他が反復されるという点もありそうだ。そりゃコードを読むだけならそれほど問題にならないだろうし、日常語的な長い変数名は可読性という点でわかりやすくなるのだろうけれど、打ち込むとなると途端に苦行と化す(笑)。分野は違うとはいえ、写字生の苦労が偲ばれるのは確かだ。一方で、文字や画像を基本単位(ピクセルとか)にまで分割して再構成するという基本的な発想(アリストテレス的だ)は大いに参考になるところではある。
そうした書き写しのミスの話にも関連するが、このところ見ていたのがバート・D・アーマン『書き換えられた聖書 (ちくま学芸文庫)』(松田和也訳、筑摩書房、2019)。これ、文庫化の元となった単行本『捏造された聖書』も購入したように思われるのだが、どこかに積まれて発見されず、文庫も改めて買いなおしたもの。個人的にはルネサンス以降の新約聖書を扱った3章以降が参考になる。聖書の「改ざん」の具体的な事例を挙げているあたりも、身につまされる話だったりもする。
紹介されている各種の逸話も興味深い。個人的にとりわけ印象に残ったのがエラスムス。西欧初の印刷版のギリシア語聖書は、スペインの枢機卿ヒメネスが発案した『コンプルトゥム版多国語対照聖書』になるはずだったが、その刊行の計画を知っていたエラスムスが、それに先んじて、ちゃっかり初の印刷版ギリシア語新約聖書を刊行してしまうというのだ。かなり急いだ雑な仕事だったようで、わずか一冊の写本に依拠していただけだというから驚く。そうまでして初の印刷本という誉れをかっさらってしまうあたり、エラスムスの人間臭さというか俗なところがかなり前面に出ているかのようで、そういう面からのエラスムス像というのは新鮮な気がする。
前回取り上げたベルクマンの本では、第5章が「脳または新たな物神」という表題で、脳科学者たちが精神分析などの思弁的な教説を、科学的な言説でもって塗り替える、もしくは取り込もうとしていることを、改めて問題として掲げている。内的な作用をあえて比喩的・概念的に描きだすのか、それともひたすら外部から観察可能な事象のみで接近しようとするかの、ある意味根源的な対立関係にあって、一部には両者の微妙なハイブリッドも散見されるらしいことが、その議論から浮かび上がってくる(脳科学側にも、人文学側にも)。それは果たして価値ある議論になりうるのか、とそこでは批判的に問うている。
それにも関連するが、少し前に見た論集『イメージ学の現在』では、イメージ学の下位分野に神経イメージ学という分野の存在が示唆されていたほか、それと同時に、神経美学という分野にも触れられていた。両者の違いは、神経イメージ学が「知覚論を参照し、イメージ分析と知覚分析の弁証法からイメージ表象を読み解こうとする」のに対し、神経美学は「芸術作品をトリガーとして引き起こされる情動体験と脳活動の相関を主な研究トピックとする」(同書第5部序文、坂本泰宏、p.404)ものだという。神経美学のこれまでをざっと振り返る石津智大「神経美学の功績」(同書18章)でも、「神経美学は「脳の仕組み」を理解する学問であり、人文学の主張を肯定も否定もするものではない」(p.474)としている。最近出た入門書という位置づけの石津智大『神経美学: 美と芸術の脳科学 (共立スマートセレクション)』(共立出版、2019)でも、そのことは易しい語り口で丁寧に解説されている。なるほど、神経イメージ学と神経美学とは目指す方向性も違えば、アプローチもまったく異なることがわかる。では、なんらかのハイブリッドのようなものは出てきていないのだろうか、あるいはこれから出てくる兆しなどはないのだろうか、という点が少し気になってくる。
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