そろそろ年末読書。というわけで、まずは「心の哲学」系の一冊。以下ややネタバレ。源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』(慶応義塾大学出版会、2019)。音楽聴取を題材に、美学的な問題を科学的に解釈し直そうという試みで、前半は心理学や美学の一般的な学説がまとめられている。本題の音楽の問いは後半から。ただ、全体的には諸説の再検討という面が強く、やや表題から期待したものとは違っていた。たとえば短調がなぜ悲しげに響くのかといった問題を扱うのかと期待していたのだけれど、そういう話ではなく(考えてみると、それでは心理学の本にしかならないわけだが)、音の聴取から曲想までを対象として、様々なアプローチを取り上げ検討し直すというものだった。
各章は、いくつかの仮説を呈示して、著者がそのうちのどれを選ぶのかを順次示していくというスタイルで書き進められている。かくして、まずは音の「実在論」が擁護され、また音の物理空間内の位置づけとして「遠位説」(音の発生源への位置づけ)が選択され、聴覚以外の感覚も動員されるというマルチモーダル説が採られ、さらに音楽が喚起する情動を、音楽の表出的性質に位置づけている。その情動のいわば下位区分として、たとえば悲しい曲を聴いているときの情動が解釈されるわけだが、同書ではそうした悲しさを一種の暗黙の意図的な錯誤と見なす「エラー説」を採択する。そこから、表題の問いに対する次のような答えが出てくる。悲しい曲を聴くときの情動の状態に、「悲しみ」と呼ぶべきものはないというテーゼだ。そしてまた、悲しい曲の表出的性質(悲しみ)とは何を意味するのかを探るべく、想像を介して「悲しんでいる人の特徴」をいくぶんか含み持つことを説明づける、類似説・ペルソナ説というものを取り上げている。
少し気になったのは、そもそも情動という定義づけも難しそうなものの実在性には、なんら疑いが差し挟まれていない点。心理学ではない「哲学的」な問いとしては、情動と称されるものにこそ「本質的にそんなものはない」という反論がありうるように思えるし、もしかするとそれこそが、反駁すべき最大の異論をもたらしそうな気もするのだが、どうだろうか……。