洋の東西というか、方向性(ベクトル)の対比を強く感じさせる哲学的エッセイを2つほど立て続けに読みました。一つはペーター・スローターダイク『水晶宮としての世界:資本とグローバル化の哲学のために』(高田珠樹訳、青土社、2024)です。現代世界を5層から成る水晶宮(これ、ドフトエフスキーにもとづいているものらしいですが)に見立て、スローターダイク自身の球体圏論(同書に先立つ三部作で刊行されたもの)のエッセンスを踏まえた上で、決して脱し得ない巨大な監獄のような空間について、哲学史へのリファレンスなどを含めつつ、思考を縦横に巡らせて行きます。
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文体はそこそこ軽妙でも、いかにも硬質な西欧的思考だなと感じさせるのは、まずは世界観として、天空のような壮大なもの(大型の温室、世界宮殿、結晶化した世界システムなどなど、様々に言い換えられます)から出発し、いわばトップダウン的なベクトルでもって、事物・事象の配置を考察しようとする身振りがあるからでしょう。著者の語る対象は、どんどん下方へと向かっていき、最終的には副題にあるように、資本によるあらゆるものの流動化や、それにともなう圧縮や加速化に話が及んでいくのですが(それに抵抗するものが、著者が称揚するローカルなものだったり、地域的な文化だったりする、というわけなのですが)、まずは越えがたい天蓋が、伽藍が、形をかえながらも、いつも覆いかぶさっているイメージがあるように思えます。
こうしたトップダウン的なビジョンとは別の、ボトムアップ的な視座で世界をつかみとろうとするかのような哲学エッセイが、もう一つの、山内志朗『流れることへの哲学』(慶応義塾大学出版会、2025)です。
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こちらは著者のとても私的な、内省のエッセイという感じですね。アヴィセンナをもとに、存在論を流れの中で現出するものと捉える境地、「花が存在する」ではなく「存在が花する」と言わしめるような境地から、世界を見つめ直そうという語りの試み、というところでしょうか。ここには、あらかじめ仮構された伽藍のようなものは見当たりません。哲学史的なリファレンスはもちろんあって、スピノザ(個人的にはスピノザがなぜ流れの思想家なのか、ちょっとよくわからないのですが)やドゥンス・スコトゥスなど、著者がこれまで取り上げてきたテーマのほか、中動態の話などにもページを割いています。自身の研究の歩みと、数々の著作で触れられていた事象とが重なり合って、とても内密な、思想の手触りがうかがえる貴重な本になっている気がします。これまでにない(?)味わい深い一冊です。
この両者のスタイル、方向性、基本姿勢の違いは、どこかとても鮮烈です。同時にそれは、内的な志向性の違いにとどまらず、文明論的・文化的な対極でもあるのかも知れないなどと、師走のこの慌ただしいときにもかかわらず、勝手に妄想し楽しませてもらいました。著者たちや訳者・編集者などに感謝。