これは刺激的な一冊。マルクス・ガブリエルとグレアム・プリーストが、「全体」(世界)や「無」の存在をめぐり丁々発止のやり取りを展開する『全てと無ーー世界の存在をめぐる哲学』(山口尚訳、ちくま新書、2025)。新書サイズを大きく逸脱する感じの内容量ですね。ちょっと読みにくい部分もありますが、なかなかの読み応えです。
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ガブリエルのテーゼ「世界は存在しない」を受けての批判的検証をプリーストが担い、それにまたガブリエル側が反論する、という感じで展開していきます。ガブリエルのテーゼは、あらゆる事物は特定の「意味の場」に現れる(写像として指される)ことで存在すると言うもので、すると「世界」(つまり全体)と称される全体は、そうした特定の意味の場には現れえないので、存在しえないことになる、というものですね。これに対してプリーストは、各々の対象のメレオロジー和としての全体はありうる、という立場です。
これってすごく大雑把には、形式論理学vs現象学という感じでもあるのですが、内実はそう単純でもないようです。当初はまったく相容れないかのような両者の立場ですが、論考と対談のやり取りが進んでいき、相手が繰り出す例証や比喩の検討などを重ねていくに連れ、それぞれが必ずしも語ってない前提やら議論展開やらが明らかになって行きます。興味深いことに、「無」に関する議論にいたると、まるで両者の立場が一部入れ替わるかのように見えなくもない場面も出てきたりします。
プリーストは、「無」は「ない」ということだけれども、無について語るときには「無」という対象がありうるとします。ないけどある、ということで、そこには矛盾的真理がある、というのですね。対象としての無というのは、無から区別されることで任意の対象は定立されるのだから、その場合の無は、任意の対象の根拠として、それ自体が一つの対象でありうるといいます。それは相対的な無なのだ、と。これに対してガブリエルは、「ない」とされる無を絶対的な無とし、これに対応するような対象は存在しえない、したがって無は意味をもたない、無とは無意味である、と断じます。
さらに、二人が反論しあうそんな議論がいたる先には、すべては空であるというインド哲学、あるいは、あらゆる事物は一種のネットワークを織りなすという華厳哲学などが見えてきたりします(ガブリエルがそう語り、プリーストが同意したりとか)。ある種の神秘主義?でも、これもまた、同書の一つの肝になっています気がします。
二人の議論を挟む形で、関東と巻末にラウレアノ・ラロンの序論と、グレゴリー・モスの総括が掲載されています。これらも実に興味深い論点をさらい直して、二人の立場の違いや一致点を、また別の角度から明確にしてくれています。総じて同書は、現代の哲学が形式論理や現象学的な深化を通じて至った一つの限界点・臨界点を、いろいろな角度から垣間見させてくれています。20世紀後半(80年代とか)からでさえ、ずいぶん遠くにまで来た印象を与える哲学の風景、といったところでしょうか。