昨年の夏くらいだったかに出た『西洋中世奇譚集成 – 皇帝の閑暇』(池上俊一訳、講談社学術文庫)に続き、『西洋中世奇譚集成 – 東方の驚異』(同)が出ていたので即買い。今回は「アレクサンドロス大王からアリストテレス宛ての手紙」という7世紀ごろの偽書と、「司祭ヨハネの手紙」というこれまた成立不詳(12世紀ごろ)のラテン語バージョンと古仏語バージョンの邦訳。この後者はいわゆるプレスター・ジョン伝説(東方にあったとされるキリスト教王国の統治者)。まだぱらぱらとめくってみた程度だけれど、それらに描かれる東方の巨富の国や、見知らぬ珍獣、不可思議な民などのイメージ(神話素というか)が、どれほどパターン化されたものであるかが改めて感じられて興味深い。前に挙げたバルトルシャイテス本ではないけれど、限定数のモチーフが変形したり結合したりしながら脈打っていくという話は確かにここでも実際に生きている感じがする。うーん、プロップの『民話の形態学』とかをすごく懐かしく思い出す(笑)。そういえば、やはりプロップの『魔法昔話の起源』が同じ講談社学術文庫で文庫化され今月刊行だそうで(ref:「ウラゲツ☆ブログ」)。
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証聖者マクシモス
7世紀のビザンツ世界を代表するギリシア教父、証聖者マクシモスの思想を扱った、谷隆一郎『人間と宇宙的神化』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ最初の3章ほどだけれど、これはなかなかに重要という気がする。エマニュエル・ファルク『神・肉体・他者』も相変わらず読んでいるのだけれど、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナを扱った章(第二章)で、偽ディオニュシオス・アレオパギテスの否定神学をラディカル化するエリウゲナは、一方で同じく翻訳を手がけたマクシモスの影響により、神の否定性を人間にまで拡張し、結果的に偽ディオニュシオス的な神と人との無限の距離を、模範論的な類比で「修正」する、とされている。ファルクは、エリウゲナにおいていわば「否定」が反転して「肯定」となる様を、エリウゲナのテキストから鮮やかにすくい取ってみせているのだけれど、どうもそこで取り上げられる論点は、マクシモス(あるいはもっと広くギリシア的伝統)の議論に予想以上に多くを負っている感じがする。
たとえば『人間と……』では、マクシモスのピュシスについての基本理解として、諸処のものごとはそれ自身の目的に促される動きにおいてあるとされ、その目的とは自足する原因なきもの、すなわち神だとされる。そこでは神もまた「不受動で活動的な働き」だと言われ、対する被造物の動きとはこの場合、生成(創造)と究極の目的との両極の中間とされる。一方、ファルクによれば、神(テオス)について語源から検討しようとするエリウゲナは、そこに「見る」(テオロー)と「走る」(テオー)の二つの意味を重ね、後者についての考察において、動く者としての神と、それによって統合される「動くもの」としての被造物を考えているという。神が「走る」とは、神がおのれ自身のうちにおのれを横切り、「両極」を繋ぐことであるとされている。うーむ、このあたり、実に見事にオーバーラップするでないの。
谷氏のその著書は、マクシモスの思想を体系的に扱っているので、もしかするとそれを参考に、エリウゲナのテキストとの照応関係をリストアップするなどしたら面白いかもしれない。とすれば、まずはやはりエリウゲナの主著『自然について』をちゃんと読んでみないと(笑)。
オバマその2
柴田元幸責任編集の雑誌(ムック)『monkey business』の最新号(vol 4. 少年少女号)を出先で買う(1月に出ていたのね)。まだ中身をよく見ていないのだけれど、巻末の編集後記らしい「猿の仕事」という文章に、ある作家が、オバマ政権誕生によっても是正されない悪は、アメリカにおける蕎麦の不在だとのたまったという話が出ている。まあ、蕎麦の場合には色も味もインパクトがないわけで、天ぷらや寿司、照り焼きがアメリカ中に広まったようにはいかないんじゃないすかね(別に炭水化物への差別というわけではないんでは……)。また、ほかの作物が潤沢にできる気候風土があるときに、ソバの実なんかまず栽培しようとは思わないだろうし。ま、それはともかく、オバマに「過剰な期待をしてしまいます」というその末尾の一文から考えることはいろいろと多い……。『現代思想』3月号とか、岩波の『世界』4月号とか、なにかどうも「前政権のブッシュの『呪い』(つまりは負の遺産)によって、オバマは思うような政策を取れない」というのが評論的にスタンダードな見方になってしまっているような感じだけれど、オバマが政策的に大きく失敗するというのはよっぽど大きな悪夢になるような気がする。なにしろその場合、「やっぱり黒人は……」みたいな感じでレイシズムが蔓延したり、マイノリティの社会上昇がますます困難になったりするかもしれないし、下手をすると米民主党そのものだって二度と浮上できないほどの打撃を受けて弱体化し、すると4年後にはまた共和党政権になって、ブッシュに輪をかけて横暴な大統領が「やっぱり戦争しかねえな」なんてことを言い出したりして……。いやいや真面目な話、オバマには失敗は許されないっす。
上の『現代思想』、萱野+諸富対談で、かつてのルーズベルトのニューディールは大恐慌を克服できなかったというのが学術的な定説だという話が出てくる。結局は第二次大戦の戦争景気でもって危機を乗り切ったのだ、という話。うーん、このあたりの話は、素人なりにもっとちゃんと知りたいところ。もちろんニューディールにも意味はあったという話も続いているけれど(インフラの整備、税制の確立、戦後体制の基礎づけ、福祉など)、克服できなかったというのが定説なら定説で、何がどう問題で克服できなかったのか、というあたりのこともちゃんと分析されているのかしら、と疑問に思ったり。同誌にはまた、チョムスキーによる中東問題へのオバマの姿勢についての批判の文章も掲載されている。チョムスキーが支持しているらしい(訳者解題による)二国家分離による併存について、最近ヒラリーが言及するなどの動きもあったようだけれど、同じく訳者解題にあるように、それが一面では入植地問題の悪化を招くことにもなるわけで……。うーん、歴史は繰り返すというけれど、かつてのイギリスの委任統治の失敗とかも想起されたりとか……なんてことを思うと、本当に1920年代、30年代が亡霊のように漂っている感じになってくる……(おーこえ〜)。
製本
昔から革装の本の製本技術には大いに関心があった。そんなわけで、ジョゼップ・カンブラス『西洋製本図鑑』(市川恵里訳、岡本幸治監修、雄松堂出版)を購入してみる。図書館に置くような大型本を購入するのは結構久しぶりかも。児童向けの大型カラー図鑑とかを彷彿とさせ、妙に懐かしい(笑)。で、内容も実にいい。カラー写真満載で、製本技術についてかなり詳しく紹介している。職人の細かな手作業の雰囲気がびしばし伝わってくる。羊皮紙の時代からある製本技術。西欧では今でも袋とじ本があるし(だいぶ少なくはなっているみたいだけれど)、ペーパーナイフで切りながら読み、読み終わったら製本を頼んで保存版とするといったサイクルがあるわけで、そうやって子孫に書物を残していくというのは実に奥深い伝統だと改めて思う。大量消費の「使い捨て本」の対極にある書物文化だ。
でも、一方で大量の印刷・製本をする今どきの本でも、西欧ものは以外に不備があったりする。乱丁・落丁は滅多にないとはいえ、そんなに版の古くない大型辞書とかでも、数ページ分、紙の端が折り込まれてそのまま裁断・製本されてしまっている場合がある。おそらく機械が、ページの裁断時に紙を巻き込んでしまうのだろうけれどね。うちにある羅仏辞書の定番ガフィオ(”Dictionnaire latin-français Le Grand Gaffiot”, Hachette)や、希英辞書の定番中の定番リドル&スコット(”Greek-English Lexicon”, Oxford Press)などはその例。仕方ないので、折れている部分を広げて端をナイフで切り揃えて使っている。ま、乱丁・落丁ではないので、ごく些末な問題にすぎないのだけれど、もうちょっと機械とか改良してほしいよなあ。
不況風か……
先日ヤボ用で新宿に。で、用事のついでに久々にヨドバシカメラなどを覗いたのだけれど、以前に比べてとても客数が少なかった。平日の午前中、お昼近くとはいえ、少し前はもうちょっと人がいたような気がするのだが……。これも景気後退の影響か……?というか、どうもこのところめぼしいものがないからねえ。ひところ話題になっていたネットブックのコーナーも、なんだかどれも似たり寄ったりで意外にぱっとしない(苦笑)。デザイン的にはVAIO Type Pがちょっとだけいい感じだったけれどね。あと、富士通の高速スキャナ、ScanSnapとかが、ちょっと売れ筋な一画を占めていたが、やはり周辺機器で盛り上がるっていうわけにはちょっといかないか……(苦笑)。
話は変わるけれど、景気後退のあおりといえば、ベルギーのバロックオーケストラ、ラ・プティット・バンドが、政府の助成金を打ち切られそうになっているという。助成金がなくなると存続も危ぶまれるということで、今、ベルギー政府の文化相宛の嘆願の署名集めもなされている(こちらのページ)。うーん、先のトン・コープマンの招聘もとの破産といい、文化的な活動にも徐々に経済危機の影響が出始めているみたいだ。