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プセロス「カルデア古代教義概説」 – 6

13. Εἶναι δέ φάσιν ἐν τῷ δημιουργῷ καὶ αἰσθήσεως πηγήν, ἐπειδὴ καὶ αἴσθησιν οὗτος ¨ἐπάγει¨ τοῖς ¨κόσμοις¨· ἔστι δὲ καθαρτηρίων πηγὴ καὶ κεραυνῶν καὶ διοπτρῶν καὶ τελετῶν καὶ χαρακτήρων καὶ Εὐμενίδων καὶ τελεταρχῶν.

14. Καὶ ἐπὶ μαγειῶν δὲ τρεῖς πατέρες ἀρχικὴν ἔχουσι τάξιν. Ἔστι δὲ καὶ ὀ᾿είρου ζώνη ἀπὸ τῆς πηγαι.ας ψυχῆς τὴν ἀρχὴν ἔχουσα.

15. Ἀναργοῦσι δὲ ταῖς μὲν πρώταις πηγαῖς αἱ πρῶται ἀρχαί, ταῖς δὲ μέσαις αἱ μέσαι, καὶ ταῖς μερικαῖς αἱ τελευταῖαι.

13. 彼らが言うには、創造神の中に感覚の源がある。なぜなら創造神こそが「世界」に感覚を「もたらす」ものだからである。さらに、浄化するもの、雷、鏡、儀礼、性格、エウメニデス、儀礼を司るものの源がある。

14. 魔術についても三つの父が原理の序列を占めている。また、夢の帯があり、魂の源から原理を引き出している。

15. 第一の諸原理は、第一の源に類似する。中間の原理は中間の源に、また末端の原理は個々の源に類似する。

プセロス「カルデア古代教義概説」 – 2

4. Μετὰ δὲ τὰς ἴυγγας προσεχεῖς, φασίν, οἱ συνοχεῖς· καὶ αἱ μὲν ἴυγγες τάς ἀφθέγκτους αὐτοῖς ἑνώσεις τῶν πάντων ὑφιστᾶσιν, οἱ δὲ συνοχεῖς τὰς προόδους τοῦ πλήθους τῶν ὄντων ἑνίζουσι, μεταξὺ τῶν νοητῶν καὶ τῶν νοερῶν κέντρον τῆς ἀμφοτέρων κοινωνίας ἐν ἑαυτοῖς πηξάμενοι.

5. Προσεχεῖς δὲ τοῖς συνοχεῦσι τοὺς τελετάρχας τιθέασι τρεῖς καὶ αὐτοὺς ὄντας· ὧν ὁ μὲν ἐμπύριος, ὁ δὲ αἰθέριος, ὁ δὲ ὑλαρχης. Εἰσὶ δὲ αἱ μὲν ἴυγγες μονάδες μόνον, οἱ δὲ συνοχεῖς μονάδες ἤδη προφαίνουσι τὸ πλῆθος, οἱ δὲ τελετάρχαι μονάδες διῃρημένον ἔχουσι τὸ πλῆθος.

4. 彼らが言うには、ユンクスの後に続くのは「包摂するもの」である。ユンクスはみずからのために、あらゆるものから成る、言葉にできない統一を作り上げる。一方の「包摂するもの」は、存在の多数性への過程を作り上げ、知解対象と知性との間にあって両者に共通する中心を、みずからのうちに定める。

5. 「包摂するもの」に続いて、彼らは「司るもの」を置く。それらも三つあり、それぞれ火界(天上界)、エーテル界、物質界を司る。ユンクスは端的に単独(モナド)だが、「包摂するもの」はすでにして複数性を示すモナドであり、「司るもの」は区別を多数もったモナドである。

お詫び:メルマガ(10月10日発行予定分)

体調悪化により、10月10日に予定していたメルマガ(No.158)の発行をやむを得ず見送りました。この号は2週遅れの10月24日に発行したいと思います。ご了承のほど、お願い申し上げます。

「西洋中世奇譚集成」第二弾

昨年の夏くらいだったかに出た『西洋中世奇譚集成 – 皇帝の閑暇』(池上俊一訳、講談社学術文庫)に続き、『西洋中世奇譚集成 – 東方の驚異』(同)が出ていたので即買い。今回は「アレクサンドロス大王からアリストテレス宛ての手紙」という7世紀ごろの偽書と、「司祭ヨハネの手紙」というこれまた成立不詳(12世紀ごろ)のラテン語バージョンと古仏語バージョンの邦訳。この後者はいわゆるプレスター・ジョン伝説(東方にあったとされるキリスト教王国の統治者)。まだぱらぱらとめくってみた程度だけれど、それらに描かれる東方の巨富の国や、見知らぬ珍獣、不可思議な民などのイメージ(神話素というか)が、どれほどパターン化されたものであるかが改めて感じられて興味深い。前に挙げたバルトルシャイテス本ではないけれど、限定数のモチーフが変形したり結合したりしながら脈打っていくという話は確かにここでも実際に生きている感じがする。うーん、プロップの『民話の形態学』とかをすごく懐かしく思い出す(笑)。そういえば、やはりプロップの『魔法昔話の起源』が同じ講談社学術文庫で文庫化され今月刊行だそうで(ref:「ウラゲツ☆ブログ」)。

証聖者マクシモス

7世紀のビザンツ世界を代表するギリシア教父、証聖者マクシモスの思想を扱った、谷隆一郎『人間と宇宙的神化』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ最初の3章ほどだけれど、これはなかなかに重要という気がする。エマニュエル・ファルク『神・肉体・他者』も相変わらず読んでいるのだけれど、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナを扱った章(第二章)で、偽ディオニュシオス・アレオパギテスの否定神学をラディカル化するエリウゲナは、一方で同じく翻訳を手がけたマクシモスの影響により、神の否定性を人間にまで拡張し、結果的に偽ディオニュシオス的な神と人との無限の距離を、模範論的な類比で「修正」する、とされている。ファルクは、エリウゲナにおいていわば「否定」が反転して「肯定」となる様を、エリウゲナのテキストから鮮やかにすくい取ってみせているのだけれど、どうもそこで取り上げられる論点は、マクシモス(あるいはもっと広くギリシア的伝統)の議論に予想以上に多くを負っている感じがする。

たとえば『人間と……』では、マクシモスのピュシスについての基本理解として、諸処のものごとはそれ自身の目的に促される動きにおいてあるとされ、その目的とは自足する原因なきもの、すなわち神だとされる。そこでは神もまた「不受動で活動的な働き」だと言われ、対する被造物の動きとはこの場合、生成(創造)と究極の目的との両極の中間とされる。一方、ファルクによれば、神(テオス)について語源から検討しようとするエリウゲナは、そこに「見る」(テオロー)と「走る」(テオー)の二つの意味を重ね、後者についての考察において、動く者としての神と、それによって統合される「動くもの」としての被造物を考えているという。神が「走る」とは、神がおのれ自身のうちにおのれを横切り、「両極」を繋ぐことであるとされている。うーむ、このあたり、実に見事にオーバーラップするでないの。

谷氏のその著書は、マクシモスの思想を体系的に扱っているので、もしかするとそれを参考に、エリウゲナのテキストとの照応関係をリストアップするなどしたら面白いかもしれない。とすれば、まずはやはりエリウゲナの主著『自然について』をちゃんと読んでみないと(笑)。