「未分類」カテゴリーアーカイブ

オバマその2

柴田元幸責任編集の雑誌(ムック)『monkey business』の最新号(vol 4. 少年少女号)を出先で買う(1月に出ていたのね)。まだ中身をよく見ていないのだけれど、巻末の編集後記らしい「猿の仕事」という文章に、ある作家が、オバマ政権誕生によっても是正されない悪は、アメリカにおける蕎麦の不在だとのたまったという話が出ている。まあ、蕎麦の場合には色も味もインパクトがないわけで、天ぷらや寿司、照り焼きがアメリカ中に広まったようにはいかないんじゃないすかね(別に炭水化物への差別というわけではないんでは……)。また、ほかの作物が潤沢にできる気候風土があるときに、ソバの実なんかまず栽培しようとは思わないだろうし。ま、それはともかく、オバマに「過剰な期待をしてしまいます」というその末尾の一文から考えることはいろいろと多い……。『現代思想』3月号とか、岩波の『世界』4月号とか、なにかどうも「前政権のブッシュの『呪い』(つまりは負の遺産)によって、オバマは思うような政策を取れない」というのが評論的にスタンダードな見方になってしまっているような感じだけれど、オバマが政策的に大きく失敗するというのはよっぽど大きな悪夢になるような気がする。なにしろその場合、「やっぱり黒人は……」みたいな感じでレイシズムが蔓延したり、マイノリティの社会上昇がますます困難になったりするかもしれないし、下手をすると米民主党そのものだって二度と浮上できないほどの打撃を受けて弱体化し、すると4年後にはまた共和党政権になって、ブッシュに輪をかけて横暴な大統領が「やっぱり戦争しかねえな」なんてことを言い出したりして……。いやいや真面目な話、オバマには失敗は許されないっす。

上の『現代思想』、萱野+諸富対談で、かつてのルーズベルトのニューディールは大恐慌を克服できなかったというのが学術的な定説だという話が出てくる。結局は第二次大戦の戦争景気でもって危機を乗り切ったのだ、という話。うーん、このあたりの話は、素人なりにもっとちゃんと知りたいところ。もちろんニューディールにも意味はあったという話も続いているけれど(インフラの整備、税制の確立、戦後体制の基礎づけ、福祉など)、克服できなかったというのが定説なら定説で、何がどう問題で克服できなかったのか、というあたりのこともちゃんと分析されているのかしら、と疑問に思ったり。同誌にはまた、チョムスキーによる中東問題へのオバマの姿勢についての批判の文章も掲載されている。チョムスキーが支持しているらしい(訳者解題による)二国家分離による併存について、最近ヒラリーが言及するなどの動きもあったようだけれど、同じく訳者解題にあるように、それが一面では入植地問題の悪化を招くことにもなるわけで……。うーん、歴史は繰り返すというけれど、かつてのイギリスの委任統治の失敗とかも想起されたりとか……なんてことを思うと、本当に1920年代、30年代が亡霊のように漂っている感じになってくる……(おーこえ〜)。

製本

昔から革装の本の製本技術には大いに関心があった。そんなわけで、ジョゼップ・カンブラス『西洋製本図鑑』(市川恵里訳、岡本幸治監修、雄松堂出版)を購入してみる。図書館に置くような大型本を購入するのは結構久しぶりかも。児童向けの大型カラー図鑑とかを彷彿とさせ、妙に懐かしい(笑)。で、内容も実にいい。カラー写真満載で、製本技術についてかなり詳しく紹介している。職人の細かな手作業の雰囲気がびしばし伝わってくる。羊皮紙の時代からある製本技術。西欧では今でも袋とじ本があるし(だいぶ少なくはなっているみたいだけれど)、ペーパーナイフで切りながら読み、読み終わったら製本を頼んで保存版とするといったサイクルがあるわけで、そうやって子孫に書物を残していくというのは実に奥深い伝統だと改めて思う。大量消費の「使い捨て本」の対極にある書物文化だ。

でも、一方で大量の印刷・製本をする今どきの本でも、西欧ものは以外に不備があったりする。乱丁・落丁は滅多にないとはいえ、そんなに版の古くない大型辞書とかでも、数ページ分、紙の端が折り込まれてそのまま裁断・製本されてしまっている場合がある。おそらく機械が、ページの裁断時に紙を巻き込んでしまうのだろうけれどね。うちにある羅仏辞書の定番ガフィオ(”Dictionnaire latin-français Le Grand Gaffiot”, Hachette)や、希英辞書の定番中の定番リドル&スコット(”Greek-English Lexicon”, Oxford Press)などはその例。仕方ないので、折れている部分を広げて端をナイフで切り揃えて使っている。ま、乱丁・落丁ではないので、ごく些末な問題にすぎないのだけれど、もうちょっと機械とか改良してほしいよなあ。

不況風か……

先日ヤボ用で新宿に。で、用事のついでに久々にヨドバシカメラなどを覗いたのだけれど、以前に比べてとても客数が少なかった。平日の午前中、お昼近くとはいえ、少し前はもうちょっと人がいたような気がするのだが……。これも景気後退の影響か……?というか、どうもこのところめぼしいものがないからねえ。ひところ話題になっていたネットブックのコーナーも、なんだかどれも似たり寄ったりで意外にぱっとしない(苦笑)。デザイン的にはVAIO Type Pがちょっとだけいい感じだったけれどね。あと、富士通の高速スキャナ、ScanSnapとかが、ちょっと売れ筋な一画を占めていたが、やはり周辺機器で盛り上がるっていうわけにはちょっといかないか……(苦笑)。

話は変わるけれど、景気後退のあおりといえば、ベルギーのバロックオーケストラ、ラ・プティット・バンドが、政府の助成金を打ち切られそうになっているという。助成金がなくなると存続も危ぶまれるということで、今、ベルギー政府の文化相宛の嘆願の署名集めもなされている(こちらのページ)。うーん、先のトン・コープマンの招聘もとの破産といい、文化的な活動にも徐々に経済危機の影響が出始めているみたいだ。

「ユリイカ」2月号

これまた滅多に買わなくなってしまった雑誌なのだけれど、『ユリイカ』2月号は久々に購入してみる。特集が「日本語は亡びるのか」で、表紙からして先の水村美苗本(『日本語が亡びるとき』)のパロディになっていたのが大きな購入動機(苦笑)。著名な書き手がいろいろとその本についてのリアクションを寄せているわけだけれど、全体的なトーンは、中程に掲載されている小林エリカの6ページのマンガが集約しているといった感じ。つまり「現地語」で文学するならそれはそれでよいでないの、ということ。水村本を後知恵的に振り返ってみると、導入部分のヴィヴィッドな、様々な言語で書いている人たちへの共感・肯定が、とくに後半の学者的筆致になるとどこか息苦しい「近代文学」擁護になってしまうあたりに、多言語主義・多文化主義の盲点のようなものを感じたりもしたのだけれど……(これはもっとちゃんと考えてみないといけない部分かも)。また、近代文学だけ特権化して教えろ、というのもどうなのか。それよりも、日本語史みたいなものにまとめて、古文(万葉集から芭蕉までひっくるめて古文というのもひどい括りだけれど)から近代までいろいろなテキストを散策できるようにするほうがよいのでは、なんて。

ひとつ面白かったのは、石川義正「ギリシャ語が亡びるとき」。田川健三の『書物としての新約聖書』を引きつつ、聖書が成立した当時のギリシア語が、「普遍語」とも「現地語」ともつかない微妙な位相(普遍語として亡びつつあった?)にあったのではないか、ということを指摘している。これはとても興味深い指摘。ローマ帝国が帝国の東側の支配を維持するために、ギリシア語を用いざるをえなくなり、結果的にギリシア語を第一言語とする人々もかえって増えてくる結果になった、といい(これは引用部分)、さらにマルコ福音書(アラム語話者が第二言語のギリシア語で書いたとされる)などがギリシア語で書かれたのも、エリート層のためではなかったともいう。うん、使用言語の移り変わりは政治的要因などいろいろなものに左右される以上、そう単純ではない、というわけだ。それらをもとに同氏は、水村本の現状分析がある種の抽象性を湛えているのでは、と述べている。うん、そのあたりも改めて考えたいところ。

実存のイカ……

小著だけれど、体裁も中身もちょっと面白い新書『イカの哲学』(集英社新書)を読む。波多野一郎という若くして没した哲学者の哲学的寓話『イカの哲学』を、中沢新一が「解説」するという一風変わった作りの体裁。そのもとの哲学的寓話は著者(波多野)の体験記にもとづくもので、特攻経験を経てアメリカに留学していた日本人学生が、バイト先の水産加工場で陸揚げされたイカの群れを目にしたのをきっかけに、ある種の平和思想に目覚めるというもの。「解説」(?)部分はこれにある種の現代思想風なリファレンスを絡めることによって、そこから大きな「平和学」を取りだそうとするのだが、これがまた注釈・注解を超えて、もとの『イカの哲学』に触発された別様の哲学的寓話になっている感じ(笑)。とりわけ鍵となるのが、援用されるバタイユのエロティシズム論。生き物に内在する、個体を超えようとする連続性の原理を「エロティシズム態」として、個体の維持にのみ奔走する「平常態」と対立させ、両者のせめぎ合い・相克から新しい平和への視座を見つけようとする。なるほど多少論理の飛躍もなきにしもあらずだけれども、「実存の相互理解」といった単純・素朴ながらとても難しい問題を突きつけるというスタンスはちょっと情感に訴えるものもある。それになにより、こうした「埋もれたテキスト」を現代思想風の語りで掘り起こすというのは、企画としてもっと色々あっていいような気がする(笑)。