言語の創成!

(bib.deltographos.com 2024/1/24)

wowowオンデマンドで、『ペルシャン・レッスン——戦場の教室』(2020年)を観ました。ナチスの収容キャンプを描いた作品ですが、ちょっと捻りが利いているのは、主人公がペルシャ人と偽って生きのびようとする、という話になっているところです。ナチスの将校がペルシャ語を習いたいというので、この主人公は偽ペルシャ語を、文字通り「作り上げて」しまいます。これはシチュエーション劇として秀逸です。いつバレるのか、みたいな緊張感が、前半を中心に漂ってきます。

https://www.imdb.com/title/tt9738784/

この言語の創造過程も印象的です。まずは単語を作り上げなくてはなりません。その副産物が、最後に見事に利いてきます。統語法については描かれていませんが、劇中の主要な言語であるフランス語、あるいはドイツ語に準じたものになっているようです。このあたり、将校の側がその言語の虚構性を気づきそうな感じもするのですけどね。いずれにしても二人は、そうしてできあがっていく架空の言語で、会話できるほどになっていきます。なんというか、外国語学習につきまとう「虚構性」について、なんだか改めて考えさせられました。

ナチスの収容所を描いた作品は、『サウルの息子』などリアリズム重視なものが優勢で、こういう機知でもって難を逃れていくといったフィクション(実話からインスパイアされている、みたいな話ではありますが)は、これまであまりなかったような気もします(本当かな?)。本作の監督は、やはりとても印象的だった『砂と霧の家』(2003年)のバディム・パールマンです。なるほどね〜と思わず唸りましたね。ちなみにウクライナ出身の監督です。

 

年越し本から(2)

(bib.deltographos.com 2024/01/13)

雑誌ですが、『現代思想』の1月号にも一通り目を通してみました。特集は「ビッグ・クエスチョン」ということで、哲学の入門編などで言及されるようなとても「大きな」問題に、様々な著者が回答を寄せています。これって、いわば「大喜利」本ですね。

大きな問題は、当然ながら短い論考で即解決するようなものでは到底ありません。そんなわけで、著名な著者たちによる回答も、ある種のアプローチを示唆するぐらいのものです。気の利いた示唆がどれだけできるかを、競っているという感じなので、「大喜利」というわけです。

個人的に面白かったものとして、一つには「なぜ人を殺してはいけないのか?」(小手川正二郎)がありました。こんな一節があります。

他人を人道的に扱うよう人々を動機づけるためには、相手を「人間」として観ることを促すよりも、それに付加されている表象を露わにし、その表象の妥当性を問い直したり、自己と他者の(不均衡な)社会的位置づけに働きかけたりする方がよいということになろう。(p.72)

人に倫理的に接する上で、レヴィナスの他人の「顔」についての論が取り上げられています。人は他者の顔に対面することで、他人を認知する新たな方向付けが得られる、つまり認知が先ではなく、他人との関わりが先なのでは、というわけです。自明視される順序を問い直しましょう、と。

もう一つは「心と身体はどのような関係にあるのか」(木島泰三)です。通常、常識的にただちに否定される「脳内ホムンクルス説」を、機能分析として捉え直すことが提唱されていたりします。

電気回路のような機械は、心、生命、目的、といった概念なしで機械論的に、つまりアリストテレスの言う「作用因」の連鎖として理解できる。(…)このように考えれば、「脳内のホムンクルス」の発想を、無内容な無限後退ではなく、生産的な機能分析として捉えることが可能になる。この説明は、ライプニッツの言う「目的因の法則」と「作用因の法則」の重なり合いと関わり合いを巧みに捉えていると言えよう。(p.159)

神が存在するかどうかという問題にも、「神」を「フライング・スパゲッティモンスター」に置き換えるだけで「問題の論理的構造が全く同じであるにもかかわらず、問題そのものがまるで異なった相貌を帯びるようにるとしたら、それはその問題の「説き難さ」の確信が論理的構造以外のどこかにあることを示唆するだろう」と指摘しています。

この論点は、「神の存在は証明できるのか」(アダム・タカハシ)が指摘する、「アウグスティヌスにとって、理性によって仕向けられた欲求の向かうべき対象こそが神であり、その神に愛をもって固着することこそが「幸福」であった」みたいな話にもつながっていて、なかなか面白いです。

もう理性だけがどうのこうのではないのかもしれません。哲学が理性・合理だけに限定されるかのように描かれてきたのはもう過去の話で、今やより流動的な部分、欲望とか欲求、あるいはホーリズム的な関わり、固着・執着といった別様の視点、総じてより感情的な面が、哲学的営為においてすら重要視されるようになっている、そんなことを感じさせる年頭の一冊でした。

 

年越し本から(1)

(bib.deltographos.com 2024/01/12)

以前のように、年末年始に年越し本としていろいろ買い込むなんてこともなくなってきましたが、少ないながらもなかなか楽しく本が読めた年末年始でした。とくにこれは引き込まれましたね。モアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』(野崎歓訳、集英社、2023)です。

https://amzn.to/4aTB5Xp

かつて賞賛されながら剽窃を疑われてフランスの文壇を去った黒人作家。その足取り、そして人物そのものを、主人公のセネガル出身の若手作家がたどっていくというものなのですが、これが実にスリリングで、また文章もリズムに富んでいて、文学というものがかつて持ちえていたかもしれない(?)どこか呪術的な力を、なぜかノスタルジックに想起させるという、たぐいまれな小説でした。アフリカの土着的なものが、普遍的な何かとして昇華されつつも、すでに失われている、という逆説でしょうか?

複眼的にいくつもの文章や、登場人物の回想などを組み合わせて示すというのは、わりとはやりの手法という感じですが、それが主人公のナレーションから地続きのままスイッチングするというあたりが、なかなか斬新な気がしました。年頭に読めてよかったなあ、としみじみ感じました。

 

配信ドラマ振り返り

(bib.deltographos.com 2023/12/29)

昨日に引き続き、今度は2023年に観た配信系のドラマ(洋物が中心)を振り返っておきたいと思います。今年は映画がいまひとつ不作で、どちらかというと、ドラマに優れた作品との出会いが多かった一年でした。まずはディストピアもの2シリーズ。一つは『ステーション・イレブン』(2021〜22)、もう一つは『ザ・ラスト・オブ・アス』(2023)

どちらも文明崩壊後を描いた壮大な作品。前者は滅亡直後と、その数十年後のタイムラインを、交互に、錯綜させて描いていました。こういう手法、最近よく見かけますが、本作はとあるコミック本がタイムラインを貫いて、登場人物たちを引き寄せていきます。そこがとても秀逸でした。

後者のほうは、ゲームが原作で、ペドロ・パスカルが抗体をもった少女と旅をしていきます。なんだか『マンダロリアン』と重なってくるのですが(そちらもペドロ・パスカル主演ですもんね)、話はこちらのほうがはるかにダークです。『マンダロリアン』も第3シーズンがありました。スターウォーズ関連ではほかに『アソーカ』もありました。そちらはまだ話の途中な感じですけどね。

次はスタートレック関連。まずは『ピカード』第3シーズン。これぞ観たかったTNGの正統な続編という感じでした。前の2つのシーズンは、ちょっとダレた気もしますが、この第3シーズンはまさに王道を見事に極めてくれましたね。個人的には、Voygerのジェインウェイ艦長も観たかったですねえ。あと、年末にかけて、『ストレンジ・ニュー・ワールド』が配信されたことも、大収穫です(これはまだ視聴途中)。スタートレック難民からやっと少しだけ脱却です。パイク船長、若いスポックのほか、クルーの面々がいい感じです。

もっと社会派なドラマとしては、『ザ・ディプロマット』が秀逸でした。英国に赴任することになった大使と、その食わせ物の夫、それらを取り巻く個性的な人々が織りなす群像劇で、中東で起きたあるヤバい一件をめぐって、様々な工作をめぐらしていきます。ギャグ満載。続編も期待できそうです。外交関係がらみでのアクションものでは、『ナイト・エージェント』が、既視感はありありでしたが、それでもぐいぐい引っ張っていく感じで印象的でした。

期待していたのにちょっと残念だったのは、マイク・フラナガンの『アッシャー家の崩壊』。ポーの諸作品を巧みに取り込んで、話を膨らませていましたが、少しとっちらかってしまった印象です。もっとストレートでもよかったかな、と。あと、これも残念だったのが、『キングダム・エクソダス』ですね。ラース・フォン・トリアーの伝説的ドラマの、24年ぶりの続編ということでしたが、かつてのドラマの、何が起きるのか予測できない不穏な感じがすっかりなくなっていて、ちりばめられるブラックなギャグも、単なる悪ノリにしか見えず、また、前のドラマのメタ的な構成とかも失敗している感じで、個人的にはいまひとつでした。

 

2023年の三冊

(bib.deltographos.com 2023/12/28)

年末ともなると、「今年の三冊」「今年の五冊」みたいな、年間まとめ企画が新聞や雑誌を賑わせますよね。今まで、ランキングはあまり意味ないかもと軽視していたのですが、最近、自分用にまとめておくのも悪くないかなと思うようになりました。目がしょぼくなり、読書量も大幅に減ったりして、逆にそういう「厳選」みたいなものに価値を見いだすようになってきたようです。人さまが選んだリストも興味深く思えてきましたし、個人的にも年間まとめを記しておくのもいいかな、と。

というわけで、まとめておきましょう。個人的に、今年読んだものでとりわけ印象的だったのは、次の三冊になります(ジャンルや出版年度などは無視することにします)。

  • グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』(信友建志訳、明石書店、2022)
  • ローラン・ビネ『HHhH』(高橋啓訳、東京創元社、文庫版、2023)
  • D.グレーバー、D.ウェングロウ『万物の黎明』(酒井隆史訳、光文社、2023)

社会史、文学、人類学と、分野はそれぞれ異なりますが、いずれもなにがしかの既存の固定観念に揺さぶりをかけるものとして、刺激的な著作たちでした。

次点としてあと三冊ほど。

  • 星野太『食客論』(講談社、2023)
  • M.H.クリチャンセン、N.チェイター『言語はこうして生まれる』(新潮社、2022)
  • エルヴェ・ル・テリエ『異常【アノマリー】』(加藤かおり訳、早川書房、2022)

とくに『食客論』は個人的にインパクトがあり、これに触発されて、ルキアノスを読み始めました。来年も引き続きルキアノスを読み進めたいと思っています。

こうして挙げていくと、さらに三冊、さらに三冊と、いつまでも続けていけそうで(アンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とか、ビネの『文明交錯』とか)、そういうところが「今年の○冊」の罠かな、という気がしないでもありません。

最近ますます思うのですが、フィクションでも論考でも、本はやはり対話相手として読むというのが基本的に重要で、冊数とか関係ないなあ、と。昔、テレビに向かって「何言ってんだおまえ」みたいなツッコミをする大人というのは確実に存在していましたが(笑)、本についても、そういうツッコミを入れながら読むというは、とても大事な気がしますね。

少し前に、X(旧ツィッター)で、これこれのリストから3冊読んでいれば哲学初段、みたいな投稿があって、なにやらひんしゅくを買っていた(?)方がいましたが、哲学の黒帯と言うならやはり、何を読むか、どれだけ読むかではなくて、読んだものをどれだけ批判的に受け止められるか、そしてその批判を一つの考えとしてどれほどアウトプットできるかによるのでは、と思いますね。ま、そこまでの強度はなくとも、とにかく日々ツッコミを入れる読書こそが、本当に面白い読書体験であるはずです。

来年もまた、新たな出会い、新たな面白い経験に期待したいです(締めの決まり文句ですが)。