4巻はピュタゴラス学派
Loeb版の『初期ギリシア哲学』の4巻目、読了。
イオニア学派を扱った2巻、3巻に続き、この4巻はギリシア西部と題して、いわゆるイタリア学派の前編、ピュタゴラス派について。続く5巻はエレア派。
4巻はピュタゴラス学派
Loeb版の『初期ギリシア哲学』の4巻目、読了。
イオニア学派を扱った2巻、3巻に続き、この4巻はギリシア西部と題して、いわゆるイタリア学派の前編、ピュタゴラス派について。続く5巻はエレア派。
「経済学」の構築
ガブリエル・タルドは『模倣の法則』で知られる19世紀後半の社会学者ですね。ドゥルーズなどが注目したことで、長い眠りから覚めたかのように、再評価されました。今回の『情念の経済学』は、著作集の刊行に寄せたブリュノ・ラトゥールとヴァンサン・レピネの序論です。
で、これはなかなか面白い一冊でした。経済学は社会経済を反映しているのではなく、むしろ経済(活動)のほうが、経済学があるからこそ成立する「構築物」であって、その経済学も、取り扱うごくごく限定的な数量で成り立っている限定的理論にすぎない、とタルドは考えていたとされます。経済学はもとより大雑把なもので、それが精緻化するには、価格とか商品の数量とかに限定されない、もっと広範囲の数量化が必要、と説いているのだ、と。
同書の解釈では、たとえば需要と供給の関係が均衡するといったこともタルドは認めません。需要?供給?そんな実体があるのではなく、要は売り手と買い手との取引が、模倣の理論に則ってネットワーク化されていくだけだ、と。ネットワークがあるだけならば、実体としての社会というものもないんじゃないの、というところにまでタルドは行っている、といいます。結局、レッセ・フェールで放っておけば均衡するようなものは何もなく、社会というものがありうるとすれば、それを構成する成員たちが、意図的に働きかけをする以外にない、というわけなのですね。ラトゥールらのこうした解釈は、タルドの読みとして妥当かどうか検証の余地もあるかと思いますが、とても刺激的な解釈であることは間違いありません。タルド自身に、そうした先鋭的なところがあったのは間違いないでしょう。
また、タルド自身が基本的に独学者(最近、独学は社会的なキーワードになってきていますね)であった事実も、なにやらとても刺激的です。
古物愛好と歴史のはざま
アルナルド・モミリアーノの仏語訳を読んでいくというプロジェクトも、この『歴史的知識の基礎づけ』でほぼ一段落。原書はArnaldo Momigliano, "The Classical Foundations of Modern Historiography", University of California Press, 1990。仏訳はLes Belles Lettres, 1992-2004。とくに古物愛好と歴史学の、どこか緊張感漂う関係性について論じた第三章が印象的でした。
ルネサンス時代の貴族が示した古物愛好熱は、趣味的に閉じたものだったようですが、モミリアーノは、そうした断片的なこだわりの知識と、正統とされる歴史学との、どこか緊張感をはらんだ並列関係を形作っていきます。その並列関係の端緒は、トゥキュディデスに見いだされるといいます。
モミリアーノがよく持ち出す仮説に、トゥキュディデスこそが政治史を歴史の中心に置く伝統の始祖だという説がありますが、ここでもそれが生きています。ヘロドトスの歴史記述はどちらかというと民族誌的なものでしたが、トゥキュディデスによってそれらは完全に脇に置かれ、年代記的な政治史が記述の中心に据えられます。しかし、そうして無視されるようになった民族誌的なディテールは、とくにヘレニズム期以降、古物愛好というかたちで生き残ったようだというのです。
中世の神学者などを経てルネサンス期に受け継がれた嗜好は、その後も続いていきます。17世紀以降の歴史学者や哲学者たちは、そうした古物愛好を軽んじ、蔑みますが、時代が下るにつれ、ときにはそれらが歴史学の本流に影響を与えるようにもなってきます。
昨今、独学・独習が盛んに取り沙汰されている感じもありますが、これもどこかそうした古物愛好的なものの伝統に、根っこの部分でつながっている動きのような気もします。正統なアカデミズムに必ずしも組み込まれない、けれども重要かもしれないそうした裾野的な活動が、いつか大きな流れになっていったらよいなあと、わたしのような一介の人文書ファンも強く思う次第です。

この夏に読んだフランクリン『蓋然性の探究』の余波が個人的には予想以上に長く続いている感じがする。確率計算のような最適解のいわば理想世界と、この上なく不規則な現実・実在とのすき間・落差について、改めて考えている。そんな中、次の一冊もまさにそういう問題系を扱っている。ジョルジョ・アガンベン『実在とは何か マヨラナの失踪 (講談社選書メチエ)』(上村忠男訳、講談社メティエ、2018)。体裁的にもちょっと面白い一冊で、1938年に失踪したイタリアの物理学者マヨラナについて、その失踪に哲学的にアプローチしてみせたアガンベンの論考と、そのマヨラナが物理と社会学とにまたがる統計的法則について批判的に論じた論文、そしてそこで言及される16世紀のカルダーノ(賭博好きだったそうな)のゲームに関する確率論を採録している。アガンベンの挑戦的な議論は、量子力学への確率論的な立場の導入について、当時の批判的な文脈を掘り起こし(哲学者のシモーヌ・ヴェイユがそういう批判を展開していたことを、個人的には寡聞にして知らなかった)、そうした文脈の歴史的起源(パスカルから、さらにはカルダーノにまで遡る)を示してみせ、マヨラナの失踪がその延長線上にあるのではないかとの大胆な仮説(!)を提示してみせる。刺激的な読解ではあるが、確率論を奉じる人々からすれば、おそらくは意味不明な議論と見なされるかもしれない嫌いはある……。
卑近な例で恐縮だが、最近とある私的な小さなSNSで、オスプレイの「落ちやすさ」は確率論的には通常のヘリなどと変わらないという主張と、それが上空をいつも飛んでいて恐怖を覚えるという主張とがぶつかって、あわや炎上かという事態を目にした(結局そうはならなかったのだが)。また、機械学習の手慰み的に、過去のデータを学習させて明日の株価などを予測するという行為が、さして成果を挙げられないという話もネット上では散見される。これらなども、確率的世界と実在的世界との間隙をかなりあざやかに示している。確率論はあくまで可能的な状態の出来事に関わるものだが、一方でそれはすぐさま実在の領域に重ね合わせられる。確率論は構造として、そうした実在領域での判断を、たとえそれが誤謬推理であってもとにかく可能にし、意思決定になんらかの影響を与えうるものとなっている。けれどもそうした確率論は、実在の領域そのものを捉えることはできず(散らばる実データと、たとえば二乗平均の平方根の直線を見てみればよい)、実在領域に合致したとしてもそれは偶然でしかないことは、もとより忘れられてはならない。人工灯で照らされているような印象であっても、その先が真っ暗であることは明らかだ。では、そうであるならば、再度翻って、実在へのアプローチの可能性はどこにあるのだろうか。マヨラナの失踪が突きつけるのは、そんな問いかけなのだ、とアガンベンは語っている。
今週はフランソワ・マトゥロン『もはや書けなかった男』(市川良彦訳、航思社、2018)を読了。著者はアルチュセールの研究者。その著者が卒倒を患い、後遺症との闘病のなかで綴っていったテキストを、著者の友人でもある訳者が邦訳したという一冊。回復と悪化の一進一退を赤裸々に綴っている。とくに本人の意志と関係なく排便を繰り返してしまう身体が、なにか底知れない不気味さ(前にも取り上げた西欧的な恐れの感情か)を漂わせながらも、客観視されているのが眼を惹く。日に複数回の、意図しない排便。「わざとやっているのか」とキレる世話をする立場の長女。失禁するかもという不安、言い知れない予感めいた恐怖……。認知症患者の親の介護をやっていると、排便に関して似たような状況がときおり唐突にやって来るが、その際には親もまた、そうした失禁の恐怖や身体に裏切られる感覚を味わっているのだろうか、などと卑近な例でつい考えてしまう。
テキストの全体は、ほかにアルチュセールに関する発表の中味をめぐる思考の動きや、書かれたテキストを友人らに送った際のその友人らの反応などが随所に挿入される。断章的に編集されて時系列も飛び飛びになっているようだが、それらがまた、テキスト全体に独特の詩的ともいえる余韻を残してもいる。ここで語られているのは、老いや裏切る身体といった、ある意味普遍的なテーマでもあり、老境に差し掛かった人ならば誰もが想定しうる状況の断片と言えるかもしれない。そんなわけで若い人はピンと来ないかもしれないけれど、これはとても切実で悲痛な、それでいてどこかオプティミスティックなもの、希望の断片のようなものをも含み持った誠実なテキストであると思われる。というか、そういう入り方ができるだけ、自分も歳を取ってきたのだなあと、痛感させられる。