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民主主義の冒険のために

挑発的なタイトルに惹かれて読んでみた、デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について』(片山大右訳、以文社、2020)。一般通年的に古代ギリシア起源とされる民主主義だが、その起源の設定は後付けのものではなかったか、という論考。たしかにアリストテレスなどは、専制制、寡頭制に対する民主制を、混乱を導きやがては専制を招く悪しき政体として批判していた。つまりアテネ出自とされる民主制は当初、必ずしも高い評価がなされていたのではなかったし、西欧のその後の体制(王政など)においてそれはつねに一蹴されてきたものであって、のちの共和政になってからも、民主主義の名で語られるのは暴動・反乱であって、決して理想的な政治体制ではなかった。

民衆全体による合議というかたちは、実は古代ローマだけでのものではなく、著者によると、おそらく小規模の共同体が最初にとるコンセンサスに基づく社会に広くみられるものだった。古代インドしかり、マヤ文明しかり。一方で、強制力を伴う近代的装置としての国家こそが、西欧が真にシステムとして築き上げてきたものにほかならず、それは長いこと民主主義を暴動としてひとくくりにし斥けてきた。民主義主義が国家そのものの基盤として考えられるようになったのは、長い歴史においてはごく最近のこと、つまり19世紀になってからのことにすぎない。植民地の地元のエリート層を支持して、改革と称して反動勢力を抑え込むための政策をしつらえるために、列強は前例を西欧の古代史に求めるようになる。その中で代表制の概念が定着し、のちにそれが民主主義と見なされる。結局それは、国家の側が共和制を別の名で呼ぶようになっただけの話でしかない。

結局、国家という装置と民主主義とは原理的にも相反せざるをえないものでしかなく、所詮は水と油だ。それらの接合の試みは、いびつな姿を見せるほかない。とはいうものの、だからといっていまさら民主主義をあきらめることなど論外だ。著者も言うように、民主主義には新しい意味付けと再編が求められる。「自律的コミュニティの自己組織化」のような。その意味で、民主主義はその出自の場へといったん戻らなくてはならないのだ、と。

ある意味これは、民主主義の奪還のための書。なんともタイムリーで示唆的な一冊。

歴史記述の諸問題

歴史記述の黎明

今年の初めに続き、アルナルド・モミリアーノは仏訳本だけでも読んでおきたいと思い、今度はNRFの『歴史記述の諸問題――古代と近代』(Arnaldo Momigliano, “Problèmes d’historiographie ancienne et moderne“, Éditions Gallimard, 1983)を取り寄せてみた。英語およびイタリア語で発表された論文をまとめたもの。フランス独自の編集なのかもしれない。古代ギリシアからローマ、さらにはユダヤ教・キリスト教世界、中世、ルネサンス、近代と、ギリシアの歴史記述の伝統がどう扱われてきたかについての各論の数々、そして書評論文などから成る。さしあたりいくつかの論考を眺めてみた。初っ端を飾る「ギリシアの歴史記述」はいわば概論、2つめの「古典世界の歴史家とその聴衆――いくつかの示唆」は受容史。ほかに興味深い章題には、「歴史記述史のなかのヘロドトス」、「西欧におけるポリュビオスの再発見」などなど。

古代ギリシアの歴史家と言えば、まずは誰よりも前5世紀のヘロドトスとトゥキディデスが双璧。ヘロドトス以前にももちろん先達はいる(ギリシアの神話の系譜をまとめたミレットのヘカタイオス)し、同時代人もいた(局所的な歴史を記したレスボス島出身のヘラニコス)が、まずはその二大巨頭の比較論が興味深い。ヘロドトスの独自性は戦争史の秩序立った語りと、戦争の原因をめぐり民族誌や政体史を始めて活用した点にあった。一方、トゥキディデスは民族誌を援用することなく、軍事の歴史と政体史を、直接的な近因と遠因の双方の視点から描き出すという方法を取った。民族誌は基本的にギリシア人と蛮族とを分ける発想をもとにしていて、それに依拠するかぎり、非ギリシア語圏については粗末な言及しかないという。

一方、この両者にはもちろん共通点もあって、ヘロドトスは自分が直接目にしたことを重んじ、トゥキディデスもそれを継承し、同時代史をとくに重んじていた。局所的な地方史よりもギリシア全体の歴史に目配せしようとするところも共通する。散文から派生した「歴史」を、他のジャンルから区別されたものとして確立していくのも両者だ。それは神話の要素が後退していく頃合いと時を一にしてもいた。

モミリアーノは、そうした記述やアプローチの継承関係についてさかんに言及している。歴史記述は古代ギリシアにおいては学として確立されていなかったが、それでもトゥキディデスの方法論は継承されていく。著名な歴史家の多くが、祖国を離れた流浪の状態で歴史記述を行っているとの指摘も示唆的だ。トゥキディデス、クセノフォン、クテシアス、テオポンポス……さらに時代が下るとポリュビオスやハリカルナッソスのディオニュシオスなどなど。戦記と政治史を中心とするトゥキディウスのモデルは、前4世紀にもてはやされ、後のヘレニズム期、ローマ時代、ビザンティン帝国期へと受け継がれていく。一方でクセノフォンが平行して用いた私的な思い出を語るというスタイルは、長い時間をかけて人物伝、ひいては自叙伝へと発展していく。

歴史書の受容史もまた見逃せない。ヘロドトスが定期的に公の場での朗読会を開いていたことが示されている。トゥキディデスはそれにかなり批判的だったという(聴衆が好むのは驚異的な話で、それがないと朗読会は盛り上がらないことなどを指摘しているのだという)。ヘロドトスは朗読会を通じてかなり高額の報酬を得ていたらしい。朗読会はその後も長く継承されながら、一方で文書の拡散に伴い重要性を失っていく。デモステネスはトゥキディデスを8回も筆写したというし(ルキアノスの記述)、ブルトゥス(前1世紀のローマの軍人)はファルサロスの戦いの前日までポリュビオスを要約本を読んでいたのだとか。こうした小ネタ的な言及も興味深い。

自然概念の変遷へ

待ってました!碩学ピエール・アドの代表作『イシスのヴェール――自然概念の歴史をめぐるエッセー』(小黒和子訳、法政大学出版局、2020)。なんとアドの邦訳は今回が初なのだという。まず、「自然は隠れることを好む」と訳されてきたヘラクレイトスの箴言をめぐる意味・解釈の変遷を追った序文、そしてその解釈の迷走する森へと入っていく第1部、第2部、第3部に、すでにしてすっかり射抜かれてしまう(笑)。その箴言における自然とは何か、隠れるとはどういうことか、好むとは?これらをめぐるだけでも、すでにして様々な意味が含まれうる。

自然は「個々のものの構成」「根源」「ものを出現させる原因」「形象」などの意味を担いうるし、隠れることを好むの部分も、「隠す傾向がある」「隠れる傾向がある」「消滅させようとする」などなどの意味合いをもちうる。でもって、これがまたスリリングなところだけれど、そうした多様な解釈は歴史的な考察へと送り返される。こうして「フュシス」をめぐる、プラトン以前からアリストテレス、ストア派を経てフィロンや新プラトン主義、sらにはキリスト教世界、中世、ルネサンス、近世・近現代へと向かう壮大な旅が始まる……。

第4部以降、話は自然の「秘密」を探求する力として、ピエール・アドは実験・働きかけを重視するプロメテウス的方法と、推論・隠喩・詩的なアプローチを用いるオルフェウス的方法とを対置し、それぞれ古代から近代にいたるまでの変遷を、様々なエピソードを自在に操りながら追っていく。そしてそれら2つの方法は歴史の節々にて交差・邂逅する。25の世紀を縦断するかくも壮大な道行き。

巨大数が引き寄せるもの

これも年越し本だが、昨年の『現代思想』12月号(特集:巨大数の世界)(青土社、2019)を興味深く読んだ。巨大数というのは、位取りの名称がないほどの大きな数で、指数その他の組み合わせで表されるものらしい。とくにネット上で数学愛好家たちがいろいろなアイデアを出して検証しているといい、基本的にアマチュアリズムが牽引している現象だというのもどこかエキサイティングだ。最初に、「フィッシュ数」という数を考案したというフィッシュ氏と、数学史家の鈴木真治氏の対談があり、数学者の甥が考えたというグーゴル(1の後に0が100個続く数)の話などが紹介されたりしているが、ほかの論考も基本的には大きな数の扱いなどをめぐる数学史の紹介が中心。媒体が思想誌であることもあり、また普段あまりなじみのないトピックだけに、どうしてもこれまでの経緯や前史を振り返るという趣向の論考が多い。

けれども、個人的にはそれらもまた面白い。藤田博司「無限と連続の数学」では、もちろん主役となるのは近現代の諸理論なのだけれど、史的に振り返る冒頭部分でも、ユークリッドなどの古代ギリシアから近世にいきなり飛ぶことをせず、中世(14世紀)のブラッドワーディンやリミニのグレゴリウスの無限をめぐる議論をきっちり差しはさんでいるところに好感がもてる。対談にも登場した鈴木真治「歴史的に観た巨大数の位置づけ」では、million、billion…といった乗冪の命数法の考案者としてニコラ・シュケや、アラビア数字を伝えたとされるオーリヤックのジェルベール、16世紀の指数概念の考案者シモン・ステヴィンなどの名に触れている。斎藤憲「古代ギリシャの(巨大)数」は、ユークリッド『原論』が一般論に始終し、具体的な数字をほとんど出していないことなどを指摘したり、前2世紀の計算天文学の祖ヒッパルコスが示した数字(10の肯定命題の組み合わせが103,049個)が、10個の並んだ数に括弧を付ける方法の数だということが1997年に解明された話、さらにはアルキメデス『砂粒を数えるもの』の議論を紹介したりしていて、特段に楽しい。同書は「適切な記号の有無が人間の思考力を大きく左右する」(p.108)証左だと、同論文著者は述べて締めくくっている。

記号の有無と思考力の関係性は、そのまま数学的事象の存在論的地位の議論にもつながっていく。近藤和敬「かぞえかたのわからない巨大数は存在しないのか」は、数学的なものがある種の存在者であるという立場から、それをあくまで現に存在するものと規定し、名指すことができないうちは、それは「現に」存在しないという結論を導いてみせる。これは続く佐金武「永遠について――現在の観点から」にもやや関係する議論。そちらは、現在主義という立場を取り(マクタガートのB系列は前後関係だけがあるとするものだが、それをさらに純化したような立場だ)、その場合に永遠というものの諸相(無限性。不変性、無時間性)がどう表現可能であるかという問題を論じてみせる。

数学プロパーな人から見ればなんのこっちゃとなるのかもしれないが、総じて、巨大数という入口から、数学史のほか、無限、存在、時間など、哲学的なテーマが様々に引き寄せられてくる、そのスリリングな様を存分に楽しめる。

古代思想と音楽

音楽と建築夏読書。だいぶ前に読みかけで放置してあったクセナキス『音楽と建築』(高橋悠治訳、河出書房新社、2017)をとりあえず通読。ヤニス・クセナキスといえば、建築家でもあった作曲家。同書はそのクセナキスの論考をまとめた日本版オリジナルの論集。数学への言及や数式が出てくる箇所が多々あり、難解な印象だけれど、そのあたりは多少ともスルーしながら読み進めれば、壮大なビジョンのようなものも浮かび上がってくる(どうせ細かいことは1回通読した程度ではまったくもって不案内にすぎないのだから、そういう大局的なところを楽しもう、というわけ)。というのもクセナキスは、古代音楽についての見識から出発して、ある種の音楽観を刷新しようと努めているからだ。

「メタミュージックに向かって」という論考では、紀元後数世紀までの古代の音楽が「旋法」(それは音階の型にすぎないとされる)ではなくテトラコルドに、そしてある種の「システム」にもとづくものだった、とクセナキスは喝破する。そのことが曇らされているのは、単旋律聖歌をもとにした中世以降の見識のせいなのだ、と。さらにそうした古代の音楽の「入れ子」状の構造がどんなものだったのかの記述を試みる。ここで参照されているのはアリストクセノスの音楽理論だ。それはさらに、ビザンツ音楽において、ピュタゴラス派の計算法と融合して拡張されていく様子をも描き出していく。

「音楽の哲学へ」と題された論考では、古代ギリシア思想の独自の総括のようなことを行っている。イオニアの哲学者たち(アナクシマンドロス、アナクシメネス)が、なにもないところから推論としての宇宙論を創造し、宗教や神秘主義に打ち勝つ道を開いたことを高く評価し、その推論を促した反問の技法が、ピュタゴラス教団の数の思想、さらにはパルメニデスの議論に結実したことを言祝いでいる。万事がなんらかの数であるという考え方と、感覚外の現実が「一つ」であるという究極の存在論は、現代にいたるまで(ときおり後退したりしながらも)手を変え品をかえ受け継がれている、とクセナキスは見る。一方でこの決定論的な地平に、表裏の関係にある純粋偶然が入り込む可能性も見いだされる。エピクロス、ルクレティウスによる「偏り」概念の導入だ。これもまた、パスカル、フェルマー、ベルヌーイなどによる精緻化を経て、「トートロジー的統一とその内部での永続的変奏原理」(p.63)とが織りなす、世界の様相が明らかになっていく。クセナキスはこうした考察をもとに、時間外構造(決定論的構造)と時間内構造(純粋偶然の折り込み)の概念を打ち立て、それをもとに音楽史の流れまでをも再構成しようとする。