スアレス『形而上学討論集』から 4

また間が空いてしまったが、とりあえず粗訳。形相的概念と対象的概念のペアにはいろいろなヴァリアントがあるようで、今回の箇所はフランチェスコ・シルヴェストリ・ダ・フェラーラ(1474-528)による区分が取り上げられている。シルヴェストリはイタリアのドミニコ会士で、トマスの『対異教徒大全』の注解書で知られる人物とのこと。

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3. 第二の見解はむしろ前述の見解の説明になっているが、それはフェラーラ(フランチェスコ・シルヴェストリ)の『対異教徒大全注解』第一巻三四章のもので、二つの概念を区別している。フェラーラは一つを名称的概念と称し、もう一つを事物的概念と称している。彼は前者を、存在するものの概念の一つでありうると述べ、一方の後者は少しもそうではないとし、両者とも存在の類比にもとづくものとしている。また、そのような在り方を、共通する類比の考え方から説明づけている。類比は二つの意味で理解されうる。一つは、名称によって意味づけられる実際の固有な概念の場合である。この場合、類比とされる限りにおいて、実際の概念を一つではなく複数有している。そのことは類比的な比例関係でも、比例関係もしくは帰属関係の場合と同様に明らかである。たとえば今、「笑っている」という言葉を聞いて、意味される事物の固有の概念が形成されるとするなら、それは一つではなく二つの概念となる。一つは固有性および形として笑っている人物の概念である。もう一つはなんらかの比例関係のみによってそのように称された、野獣の概念である。仮にこれらの概念の両方ではなく、一方のみが形成されるとするなら、類比の全体にもとづいてその言葉が理解されることにもならないし、事物を指す共通の意味にもとづいて理解されることにもならず、単に人間を一義的に表すだけか、あるいは単に意味を移しかえただけで、隠喩的に野獣を意味するかのいずれかでしかない。帰属関係の類比の場合も同様である。「健康な」を例に取ろう。意味される事物に固有の概念が形成されるのであるなら、それは単一ではなく複数となる。一つは、形および固有性において健康であるような動物の概念である。もう一つは、様々な慣例もしくは呼称によって動物の健全さについて外的に健康と称する場合の、他の事物の概念である。だがいずれの場合でも、その類比からは、事物よりもむしろ言葉の意味を表す一つのきわめて不明瞭な概念が形成されうる。「健康な」という言葉を聞いて、健全さへの秩序を理解するような場合である。目下示している場合でなら、「存在するもの」という言葉を聞くことで、なんらかの存在があること、あるいは存在への習性があることを表す、不明瞭な概念が形成されうるのだ。だがこれは名称的概念であるにすぎない。一方、実際にその名で意味される事物が概念化されるのであれば、形成されるのは一つではなく複数の概念ということになる。