2005年05月28日

講読用原文5

(7.)  Πᾶν τὸ παρακτικὸν ἄλλου κρεῖττόν ἐστι τῆς τοῦ παραγο‑
μένου φύσεως.

  ἤτοι γὰρ κρεῖττόν ἐστιν ἢ χεῖρον ἢ ἴσον.

   ἔστω πρότερον ἴσον. τὸ τοίνυν ἀπὸ τούτου παραγόμενον ἢ
δύναμιν ἔχει καὶ αὐτὸ παρακτικὴν ἄλλου τινὸς ἢ ἄγονον ὑπάρχει
παντελῶς. ἀλλ’ εἰ μὲν ἄγονον εἴη, κατ’ αὐτὸ τοῦτο τοῦ παρ‑
άγοντος ἠλάττωται, καὶ ἔστιν ἄνισον ἐκείνῳ, γονίμῳ ὄντι καὶ
δύναμιν ἔχοντι τοῦ ποιεῖν, ἀδρανὲς ὄν. εἰ δὲ καὶ αὐτὸ παρακτι‑
κόν ἐστιν ἄλλων, ἢ καὶ αὐτὸ ἴσον ἑαυτῷ παράγει, καὶ τοῦτο
ὡσαύτως ἐπὶ πάντων, καὶ ἔσται τὰ ὄντα πάντα ἴσα ἀλλήλοις
καὶ οὐδὲν ἄλλο ἄλλου κρεῖττον, ἀεὶ τοῦ παράγοντος ἴσον ἑαυτῷ
τὸ ἐφεξῆς ὑφιστάντος· ἢ ἄνισον, καὶ οὐκέτ’ ἂν ἴσον εἴη τῷ αὐτὸ
παράγοντι· δυνάμεων γὰρ ἴσων ἐστὶ τὸ τὰ ἴσα ποιεῖν· τὰ δ’ ἐκ
τούτων ἄνισα ἀλλήλοις, εἴπερ τὸ μὲν παράγον τῷ πρὸ αὐτοῦ
ἴσον, αὐτῷ δὲ τὸ μετ’ αὐτὸ ἄνισον. οὐκ ἄρα ἴσον εἶναι δεῖ τῷ
παράγοντι τὸ παραγόμενον.

   ἀλλὰ μὴν οὐδ’ ἔλαττον ἔσται ποτὲ τὸ παράγον. εἰ γὰρ
αὐτὸ τὴν οὐσίαν τῷ παραγομένῳ δίδωσιν, αὐτὸ καὶ τὴν δύναμιν
αὐτῷ χορηγεῖ κατὰ τὴν οὐσίαν. εἰ δὲ αὐτὸ παρακτικόν ἐστι
τῆς δυνάμεως τῷ μετ’ αὐτὸ πάσης, κἂν ἑαυτὸ δύναιτο ποιεῖν
τοιοῦτον, οἷον ἐκεῖνο. εἰ δὲ τοῦτο, καὶ ποιήσειεν ἂν ἑαυτὸ
δυνατώτερον. οὔτε γὰρ τὸ μὴ δύνασθαι κωλύει, παρούσης τῆς
ποιητικῆς δυνάμεως· οὔτε τὸ μὴ βούλεσθαι, πάντα γὰρ τοῦ
ἀγαθοῦ ὀρέγεται κατὰ φύσιν· ὥστε εἰ ἄλλο δύναται τελειότερον
ἀπεργάσασθαι, κἂν ἑαυτὸ πρὸ τοῦ μετ’ αὐτὸ τελειώσειεν.
 
  οὔτε ἴσον ἄρα τῷ παράγοντι τὸ παραγόμενόν ἐστιν οὔτε
κρεῖττον. πάντῃ ἄρα τὸ παράγον κρεῖττον τῆς τοῦ παραγο‑
μένου φύσεως.

投稿者 Masaki : 15:46

2005年05月18日

No.57

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.57 2005/05/14

------クロスオーバー-------------------------
映画と史実

今日(5月14日)から公開となる映画『キングダム・オブ・ヘブン』は十字軍を
描いた歴史大作とのこと。主演のオーランド・ブルーム人気にあやかる形で、テ
レビなどでは広告を打っていますが、実はこれ、フランスの一般向け歴史サイト
Herodoteのコメント(http://www.herodote.net/filmcroisades.htm)による
と、なかなかに史実通りなのだそうです。決まり文句やスローガンなどにはなっ
ておらず、演出的な細部の描写以外は史実にもとづいていて、社会情勢、政治的
分裂、同時代人の意識なども忠実に描いているとして、同サイトは高い評価を下
しています。個人的に映画そのものは未見ですので(今日から公開ですからね)
コメントできませんが、一般的なことを言えば、歴史ものの難しさはやはり、考
証や解釈をどれだけ取捨選択するかにあるのでしょう。特にハリウッド的なドラ
マツルギーにおいては、大幅な変更や強引な解釈がなされる可能性は、過去の作
品などから見ても高いのではないかと思います。

例えば『キング・アーサー』には二重城壁の城が出てきますが、ローマ帝政末期
のイングランドというよりも、いかにも中世のロマネスク様式っぽい感じで、カ
ルカッソンヌ(その二重城壁は有名で、97年でしたか、世界遺産にも指定され
ました)のものなどを模しているように思われました。このあたりアナクロニズ
ムっぽいですが、日本の時代劇も、江戸の初期・中期・後期など、風俗の変遷な
どおかまいなしにどれも同じように描かれてします。まあ、娯楽作品として楽し
む分にはそれでも問題ないかもしれませんが、気にしだすと結構気になってきま
すよね(笑)。ジャンヌ・ダルクを描いた映画でも、リュック・ベッソン監督作
品(99年)と、それより少し前(94年)のジャック・リヴェット監督作品とで
は、戦闘シーンなどにかなりの違いがあります。後者の方が当時の実際の戦闘に
近いといった話が聞かれますが(緩慢で、どこかゲームを見ているような戦闘で
す)、迫力というか、ドラマ性では前者には及びません。映像のインパクトから
して、前者がヒットするのもある意味仕方ないことですが、問題なのは、映画が
あまりに印象的で記憶に残ってしまうと、史料などを通してしか再構築されない
「実像」(もちろん厳密にはそれもイリュージョンですが)すらも、どこかそう
いう映像的記憶に引きずられかねないのではないか、という危惧です。映画の印
象が強烈であればあるだけ、それを中和するカウンターバランスがどうしても必
要になってくるように思います。

『キングダム・オブ・ヘブン』に話を戻すと、これは1180年から87年のエルサ
レム王国が舞台なのですね。復習しておくと、第1回の十字軍はエルサレム王国
を建立(1099年)しますが、その後の第2回十字軍が敗退(1148年)して以
来、フランクの勢力(十字軍)はシリアの沿岸部へと後退しながら、その地にと
どまります。土地の人間たちとの交流などもあって、残った兵士たちにはそれな
りに文化的にも土着化が進み、アラブ側との共存関係も出来ていたとされます
が、政治的な駆け引きはそこで終わりにはなりません。やがてアラブ側の英雄サ
ラディンが、エジプトのファティマ朝を倒してエジプトからシリアにまたがる一
大勢力を形成し、じわじわとその包囲網を狭めていきます。一方、病床にあった
エルサレム王国のボードワン4世は穏健派のトリポリ泊レイモンを通じてイスラ
ム側との共存を図ろうとします。政治に長けた双方の思惑で、一応の均衡関係が
保たれますが、その王の死後、続いて擁立された幼王が没すると(レイモンは摂
政でしたので、失脚します)、ルノー・ド・シャティヨンなどの強硬派が台頭
し、休戦は反故にされ、1187年にはヒッティーンの戦いで十字軍側が敗れて、
エルサレムはイスラム側の手に落ちる(イスラム側からすれば「解放される」)
のでした。映画ではどう描かれるのかわかりませんが、この辺りの政治的な駆け
引きや展開は、アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(ちくま学芸文庫)
に活写されていてとても面白いです。もしかするとこの本が、映画を見る際のカ
ウンターバランスの一つになってくれるかもしれません(?)。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第8回:sumの活用の周辺

文法トピックを毎回取り上げてまとめるこのコーナー、今回は英語で言うbe動
詞(である、存在する)にあたる、sumの活用を復習しておきます。動詞の活用
は本当はすべて覚えてしまうのがよいわけですが、学び始めの慣れないうちはウ
ンザリしてしまうかもしれませんね。そんな時には、とりあえず各時制の3人称
と1人称に的を絞って押さえておくというのも手です(ただし学校などで習って
いる場合など、そうもいかない場合もありますが……)。文章を読む際に最も頻
出するのは3人称ですし、1人称の形が分かれば辞書も引けます。文章を読むこ
とに親しんでいくにつれて、どのみち変化形は頭に入ってくるので、最初からそ
んなに焦らなくてもよいかも(笑)。ただし、スムーズに講読に移れるようにす
るためには、未完了形の3時制(現在、未完了過去、未来)とあわせて、完了形
の3時制(完了、過去完了、未来完了)も、3人称だけでもよいですから、一気
に押さえてしまう方がよい気もします。このコーナーが準拠しているフランスの
中世ラテン語教科書でも、割と早い段階で未完了・完了の両方が出そろいます。
ちなみに、完了形の3時制はそれぞれ、「(今現在)してしまった」「(昔の時
点で)してしまっていた」「(未来の時点で)してしまっているだろう」という
意味を表すのでした。

sumの3人称単数だけを並べてみます。まずは単数形から。
未完了: est、erat、erit
完了:  fuit、fuerat、fuerit
今度は複数形です。
未完了: sunt、erant、erunt
完了:  fuerunt、fuerant、fuerint

sumについてはもう一つ、他の要素と結合して複合動詞を作る点も大事です。そ
の結合する他の要素が、意味にも加わります。adsum(「〜の方に」ある)、
absum(「離れて」ある)、desum(打ち消し+ある=欠いている)、
praesum(「先に」ある=司る)、supersum(「越えて」ある=存続する)な
どなど。また、頻出する重要な動詞としてpossum(〜できる)とprosum(役
立つ)があります。これらの動詞で注意しなければならないのは、未完了形の語
根(それぞれpos-とpro-)の末尾の子音が、後に続く音の影響をうけて変化する
ことでした。pos-sum、pro-sumのように、語根末尾の次がsの時には、pos-、
pro-なのですが、母音が続くとそれぞれpot-、prod-になります。また、完了形
は語根が異なります。

possum:
未完了:potest、poterat、poterit
(完了: potuit、potuerat、potuerit)
prosum:
未完了:prodest、proderat、proderit
(完了: profuit、profuerat、profuerit)

このあたりを押さえておけば、文章を読むまであともう少し、という感じでしょ
うか。

*(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベース
にしています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その4

今回は提題5の残り部分と提題6を見てみます。これで最初の一と多の話が出そ
ろいます。原文はこちらに挙げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000488.html

# # #
(承前)
もし一が多に与るとするなら、それは実在においては一であっても、関与におい
ては一ではないことになり、かくして一は複数化してしまい、同じく多もそうし
た一によって一つにまとまることになる。一は多と通じ、多は一と通じることに
なるのだ。他の原理のもとで結びつく場合に共存し、なんらかの形で互いに通じ
合うようなものは、そうした原理に先だってみずから結びつく場合にも、互いに
相反しはしない。相反するものは、互いを指向したりはしないからだ。逆に一と
多が完全に分離するのであれば、多としての多は一ではなく、一としての一は多
ではなく、一方が他方になることもなく、この場合一は二と同時に存在すること
になる。だが、両者に先立って両者を結びつける何かがあるとすれば、それは
「一」であるか、「一」でないかのいずれかである。「一」でないなら、多もし
くは無ということになる。だが、多は「一」に先行しないのだから、それは多で
はありえない。また無でもありえない。どうして無が結びつけることができよう
か? したがって、それは「一」である以外にない。無限にいたるわけにはいか
ないのだから、「一」は多ではありえない。それはまさしく一性なのだ。そして
すべての多はその一性から生じるのである。

(6):多はすべて、一つにまとまるもの(集合体)から、もしくは一であるも
の(単体)から成る。
多のそれぞれが単一の多をなすのではなく、それぞれに多をなすのでもないこと
は明白である。単一の多でないならば、それは一つにまとまるもの(集合体)
か、一であるもの(単体)かのいずれかである。「一」に与るのならば、それは
集合体である。最初の集合体をなす存在であるなら、それは単体である。という
のも、一性そのものがあるとすれば、それはまず「一」に与り、まずは集合体を
なすのであり、それが単体から成るからである。それが集合体から成るのだとす
ると、それもまた何かから成ることになって、無限へと至ってしまう。かくし
て、まずは単体から成る集合体がなければならず、私たちはそれを起源から生じ
たものと考えるのである。
# # #

中世盛期に知られていた新プラトン主義のテキストに『原因についての書』
(Liber de causis)というものがあります。アルベルトゥス・マグヌスやトマ
ス・アクィナスが注解を記しているというこの書は、9世紀のアラブの作者不詳
のテキスト『純粋善の書』を12世紀にラテン語に訳したものなのですが、実は
これ、プロクロスの『神学提要』の焼き直しとされています。ところがそのテキ
ストには、これまで見てきた提題1から6の「一者」に関する部分がばっさり抜
け落ちているのですね。では、ラテン中世にはそうした「一者の思想
(henology)」は知られていなかったのかというと、そうでもなく、やはり並
行して西欧に入っていたヘルメス思想関連のテキストで、ある程度浸透していた
ようです。このあたりの話は、フランスの中世思想家アラン・ド・リベラの『ラ
イン地方の神秘思想』("La mystique rhenane")に詳しく出ています。

とはいうものの、その「一者」の考え方が大きな影響を及ぼしていくのは、やは
りプロクロスのテキストが直接に翻訳されてからでしょう。プロクロスのテキス
トは、1160年に『自然学提要』が訳者不詳で翻訳された後、メルベケのウィリ
アム(Guillaume de Moerbeke:13世紀を代表する翻訳者で、アリストテレス
などを訳しています)の訳業をもって本格的に普及していきます。この訳者によ
る『神学提要』のラテン語訳は1268年に出ており、1280年代には『三小論
集』『ティマイオス注解(第2巻)』『パルメニデス注解』などがラテン語に訳
されています。

上のアラン・ド・リベラによると、『神学提要』のラテン語版は実際に、13世
紀末にかけてドイツのドミニコ会の中でかなり出回っていたようです。アルベル
トゥス・マグヌスや、その弟子筋にあたるフライベルクのティエリーやマイス
ター・エックハルトなども当然知っていたはず、といいます。他のテキスト、特
に『パルメニデス注解』などについては、どのような影響を同時代的にもたらし
たか査定するのは難しいようですが、いずれにしても、それ以前はアウグスティ
ヌスやボエティウスなどを通じて間接的な形でしか言及されていなかった新プラ
トン主義は(とはいえその影響力は甚大なものがあったわけですが)、13世紀
になってようやく、より直接的な形での流入を果たすのでした。

そうなると、そこにどういう変化がもたらされたか、といった話が気になってき
ますね。このあたりの影響関係を明らかにする作業はとうてい一筋縄ではいかな
いものでしょうけれど、とはいえ概要程度は押さえておきたいところですね。新
プラトン主義の主だった流れなども復習しながら、次回以降にいろいろと見てい
きたいと思います。

投稿者 Masaki : 09:32

2005年05月14日

講読用原文4

   εἰ δὲ καὶ τὸ ἓν μετέχει πλήθους, κατὰ μὲν τὴν ὕπαρξιν ὡς
ἓν ὑφεστός, κατὰ δὲ τὴν μέθεξιν οὐχ ἕν, πεπληθυσμένον ἔσται
τὸ ἕν, ὥσπερ τὸ πλῆθος ἡνωμένον διὰ τὸ ἕν. κεκοινώνηκεν
ἄρα τό τε ἓν τῷ πλήθει καὶ τὸ πλῆθος τῷ ἑνί· τὰ δὲ συνιόντα
καὶ κοινωνοῦντά πῃ ἀλλήλοις εἰ μὲν ὑπ’ ἄλλου συνάγεται,
ἐκεῖνο πρὸ αὐτῶν ἐστιν, εἰ δὲ αὐτὰ συνάγει ἑαυτά, οὐκ ἀντί‑
κειται ἀλλήλοις· ἀντικείμενα γὰρ οὐ σπεύδει εἰς ἄλληλα. εἰ οὖν
τὸ ἓν καὶ τὸ πλῆθος ἀντιδιῄρηται, καὶ τὸ πλῆθος ᾗ πλῆθος οὐχ
ἕν, καὶ τὸ ἓν ᾗ ἓν οὐ πλῆθος, οὐδέτερον ἐν θατέρῳ γενόμενον,
ἓν ἅμα καὶ δύο ἔσται. ἀλλὰ μὴν εἰ ἔσται τι πρὸ αὐτῶν τὸ συν‑
άγον, ἢ ἕν ἐστιν ἢ οὐχ ἕν. ἀλλ’ εἰ οὐχ ἕν, ἢ πολλὰ ἢ οὐδέν.
οὔτε δὲ πολλά, ἵνα μὴ πλῆθος ᾖ πρὸ ἑνός· οὔτε οὐδέν· πῶς
γὰρ συνάξει τὸ οὐδέν; ἓν ἄρα μόνον· οὐ γὰρ δὴ καὶ τοῦτο τὸ
ἓν πολλά, ἵνα μὴ εἰς ἄπειρον. ἔστιν ἄρα τὸ αὐτοέν· καὶ πᾶν
πλῆθος ἀπὸ τοῦ αὐτοενός.

(6.)  Πᾶν πλῆθος ἢ ἐξ ἡνωμένων ἐστὶν ἢ ἐξ ἑνάδων.
   ἕκαστον γὰρ τῶν πολλῶν ὅτι μὲν οὐκ ἔσται καὶ αὐτὸ πλῆθος
μόνον καὶ τούτου πάλιν ἕκαστον πλῆθος, δῆλον. εἰ δὲ μὴ ἔστι
πλῆθος μόνον, ἤτοι ἡνωμένον ἐστὶν ἢ ἑνάς. καὶ εἰ μὲν μετέχον
τοῦ ἑνός, ἡνωμένον· εἰ δὲ ἐξ ὧν τὸ πρώτως ἡνωμένον, ἑνάς. εἰ
γὰρ ἔστι τὸ αὐτοέν, ἔστι τὸ πρώτως αὐτοῦ μετέχον καὶ πρώτως
ἡνωμένον. τοῦτο δὲ ἐξ ἑνάδων· εἰ γὰρ ἐξ ἡνωμένων, πάλιν τὰ
ἡνωμένα ἔκ τινων, καὶ εἰς ἄπειρον. δεῖ δὴ εἶναι τὸ πρώτως ἡνω‑
μένον ἐξ ἑνάδων· καὶ εὕρομεν τὸ ἐξ ἀρχῆς.

投稿者 Masaki : 11:39

2005年05月05日

No.56

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.56 2005/04/30

自宅のネットワーク機器が突然不調になり、ひどく難儀した末にやっと復旧しま
した……本メルマガも発行予定日を過ぎそうな按配でしたが、どうにか間に合っ
てホッとしています。こういうことがあると、機械に頼った生活というものの微
妙な理不尽さを改めて想ったりもします……。

------クロスオーバー-------------------------
学業事情の今昔

このところ様々な形で教育問題がクローズアップされていますが、その危機的状
況を危ぶむ声の一つに、学業が就職に結びつかなくなって生徒や学生のモチベー
ションが下がっている、という議論があります。もちろん、学業の動機付けは就
職だけに帰されるものではありませんが(「学問する喜び」といった教育の自己
目的化も重要ですよね)、これだけ汎経済論的な世の中では、まずもって学業イ
コールよりよい就職、ひいてはよりよい暮らし、つまりはマネーという結びつき
が重要なモチベーションになるのも仕方のない話ではあります。この「世の中お
金がすべて」という汎経済論に匹敵する、「世の中信仰がすべて」という汎神論
的状況が、かつての西欧には確実にありました。現代人が「お金がなければ生き
ていけない」と思うのと同じような感覚で、中世人は「信仰がなければ生きてい
けない」と思っていたらしいのですが、してみると、そうした思いに下支えされ
る社会は、どこか現代社会とパラレルに見えてきたりもします。当時の学業事
情・就職事情も気になってくるところですね。

ジャック・ヴェルジェ『中世末期の学識者』(邦訳は野口洋二訳、創文社)によ
れば、14〜15世紀にかけての中世末期、学識層にとって純粋な知の喜びという
ものはそもそも存在せず、個人の成功は信仰にどれだけ帰依できるかにかかって
いました。学問はまずもって聖職のためのものでしたから、それを修めるという
ことは即聖職者として活動することを意味していました。とはいえ、13世紀か
ら登場した大学での神学の修得には、博士までいたるなら15年を要していたた
め、そこまでいたるのはごく限られた人のみで、多くの人々は教会組織や行政組
織の中枢から末端にまでいたる様々な水準の職務に付いていたようです。同時に
その頃は、都市や商業の発達により、世俗での各種技能の必要性が高まる一時期
でもありました。ところが伝統を重んじる大学はなかなかそうした現実には対応
しようとせず、そのため文法などの初等教育を担う世俗の教育機関が徐々に広が
りを見せ、聖職者や世俗の教師たちが職を得ていったのでした。

「地位ある立場を得る」というのは確かに学問の大きなモチベーションだったよ
うで、13世紀のロバート・グロステストなどは農家の出身ですし、15世紀のニ
コラウス・クザーヌスは船頭の息子だったといいます。とはいえ、その場合の
「地位ある立場」は、一義的にはやはり、宗教的な徳ある者として人々の尊敬を
集めることができる、という意味合いが強かったのだとされます。ただ、そうし
た宗教的な下支えも時代が下るとともに風化していきます。16世紀初頭までに
は学生数が著しく増加し、人材の過剰供給ぎみにすらなったようですが、そこか
ら逆説的に、少数エリートの地位と権威の安定化が進み、特権階級の再生産が固
定化していきます。社会自体も、教会や王権の権力強化をともない、硬直化して
いくのですね。なんだかこれ、現代の状況にどこか似ていなくもありません。

では逆に、「学問する喜び」はどこから形成されてきたのでしょうか。これには
心性の変化、媒体の変化が大きく関係していそうです。上の同じ本の中でヴェル
ジェは、独学が基本的には書物の大量消費時代の産物であることを指摘していま
す。中世の学問修行はいわば徒弟制度であり、口頭での議論や伝授がメインで、
大学という一種の職能集団に属していなければなしえないものだったのでした。
活版印刷により書籍が広く普及してはじめて(それは従来考えられているほどに
は速やかではなかったようですが)、いわゆる独学は可能になり、学業の自己目
的化も助長された……のですが、一方で「学業イコール社会的地位」は、それを
下支えするものが信仰からマネーへと移り、新たな段階を迎えていくのですね。
つい最近まで、コンピュータの普及により学問の自己目的化が再び組織され直
す、といった議論もありましたが、現状はどうなのでしょう?いずれにしても、
学業の自己目的化は、新たに立て直すに値するモチベーションだと思うのですが
……。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第7回:等位接続詞

4月19日に新ローマ法王が選出された際の発表のラテン語をお聞きになった方も
多いと思います。全文はこんな感じです。最初に各国語で「親愛なる兄弟姉妹
よ」と呼びかけ、それにこう続きました。

Annuntio vobis gaudium magnum. Habemus papam, eminentissimum ac
reverentissimum Dominum, Dominum Josephum sanctae Romanae
ecclesiae Cardinalem Ratzinger, qui sibi nomen imposuit Benedictum XVI.

annuntio(私は発表する)vobis(あなた方に)gaudium magnum(大きな喜
びを). Habemus(私たちは持っている)papam(父を・法王を). ここからは
同格で、「すなわち〜」となります。eminentissimam(eminiensの最上級:こ
の上なく秀でた)ac(および)reverentissimum(reverensの最上級:最も尊
敬に値する)Dominum(長を). そして「ヨーゼフ、聖なるローマ教会の枢機卿
ラッツィンガー」と続き、qui(関係代名詞:その者は)nomen(名前を)
imposuit(imponoの完了形:定めた)、Benedictum XVI(ベネディクト16世
と)。

これはいわば定型句ですが、さすがはヴァチカン、様々な機会にラテン語が使わ
れます。第二ヴァチカン公会議で各国の教会でのラテン語の使用は取りやめに
なったわけですが、これはちょっと寂しい感じもしないでもありません。

さて、長々と横道に逸れましたが、今回の本題は接続詞の簡単なおさらいです。
上にもac(および)が出てきました。付加を表す接続詞には、ほかにetもあれ
ば、名詞の語尾となる-queもありました。clerus ac populus、clerus et
populus、clerus populusqueはどれも同じ意味になるのでした。ただetは意味
が広いようで、etiam(〜もまた/同様に〜)の意味で使われることもありま
す。necnonも中世の用法ではetと同じように用いられるほか、quoque、
item、immo(〜もまた)などもあります。

選択的な意味を表すもの(〜か、それとも〜か)として、autは相反するものか
ら一つを選ぶという意味になり(例:Oportet vivere aut mori)、velは様々な
選択の可能性や言い換えなどを表すことができます。語尾につける-veもありま
すね。逆接の接続詞(しかし/だけれど)と言われるものには、対立する意味合
いの弱さの順に、autem、vero、sed、verum、tamen、atなどがありますが、
この意味合いの度合いは中世ではかなり薄まっていて、それほど用法に差がある
ようには思えません。そのほか、原因を表す(なぜなら/なにしろ)ものとし
て、nam、enim、etnimなど、結果を表す(したがって/そんなわけなので)
ものとして、ergo、igitur、itaque、quare、quapropter、proptereaなどもあ
りますが、やはり全体として、中世のラテン語においては、意味の差は薄れ、む
しろ同語反復を避けるための別単語として使われたりしているようです。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その3

今回は提題5を見ていきます。例によって一と多の話が続きますが、提題5は
ちょっと長いので、今回は前半部分だけとしました。原文はこちらに用意してお
きました。
http://mediateurs.main.jp/blog/archives/000473.html

# # #
(5):多はすべて「一」に連なる。
一よりも前に多があるのであれば、一は多に与ることになるが、一より前にある
多は一には与らない。一となる以前に、それは多であるのだからだ。存在しない
ものに与ることはできない。「一」に与るものは、一であるとともに「一」では
ないのだから、多が原理として存在する場合には、一は決して措定されない。け
れども、なんらかの多が「一」に決して与らない、というのはありえない。よっ
て、多は一より前にあるのではない。

そこで多が一とともにあり、ピュシス(自然の秩序)において同列であるなら
(時間的秩序によってそれが妨げられないなら)、その場合の一はそれ自体とし
て多ではないし、多も一ではない。一方が他方の前後関係をなさない以上、ピュ
シスにおいて反対のものとして分割されるためだ。それゆえ、多はそれ自体とし
て一ではなく、そのそれぞれの一は一をなさず、無限へといたることになる。だ
がこれはありえない。多はみずからのピュシスにおいて「一」に与るのであり、
そこに一でないものを見いだす者などありえない。一でない存在は、すでに示し
たように無限から無限へといたるだけだからだ。したがって、いかなる場合にも
「一」に与るのである。

一はみずからにおいて一として存在するのであり、決して多に与ることがない。
多はいかなる場合も一より後に生じ、一に与るのであって、一から与られるので
はない。(続く)
# # #

今回の箇所は、一が多に先行するのであって多が一に先行するのではない、とい
う話です。原因と結果に時間関係が織り込まれている(当たり前ですが)ことが
明示されています。一と多をめぐる話は提題6まで続きます。中世で流布したこ
の『神学提要』の訳本には、一部、この提題6までがないものがあるようです。
そのあたりの話は次回に送り、今回はプロクロスの生涯の話の続きから。

プロクロスの晩年は、後継者問題でいろいろ心労があったようです。後継者と目
された弟子は、病弱だったり(マリノス)、プロクロスのもとを去っていたり
(アスクレピオドテス)、代わりに推薦されたその甥が継承を望まなかったり
(イシドロス)と紆余曲折があって、結局はマリノスが後を引き継ぐことになり
ます。かくして485年、おそらくは老衰により、プロクロスはその生涯を閉じま
す。アテナイから東の墓地に、師匠シリアノスの遺言に従ってその同じ墓に埋葬
された、ということです。

著作活動ですが、これは弟子たちを多数抱えた壮年期の頃を中心に行われたと考
えられていますが、著作についての年代記は確かなことは言えず、ただ『「パル
メニデス」注解』のことが『プラトン神学』の中で言及されることから、後者が
時代的に後だということだけが確定されているのですね。著作は注解書(アリス
トテレスの『解釈について』『第一・第二形式論理学』、プラトンの『ティマイ
オス』『国家』『パルメニデス』など。さらに重要なものとしては『ユークリッ
ド原論第1巻』の注釈も)、小論、入門書、『神学提要』を含む体系的著作、数
学・天文学などについての著書、神的秘術についての著書などがあります。『神
学提要』は比較的若い頃の著作ではないか、という説もあるようです。このあた
りの確定されない議論も、なかなか興味の尽きない部分ですね。

次回は、提題5の残りと6を見ていきたいと思います。と同時に、プロクロスの
西欧中世への流入についてもまとめてみましょう。

投稿者 Masaki : 19:08