2005年06月29日

No.60

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.60 2005/06/25

------お知らせ:夏期の発行予定-----------
お知らせです。本マガジンは基本的に隔週の発行ですが、夏期(7月から8月)
は若干変則的になります(2週おき)。次号以降は以下のスケジュールで発行を
予定しています。
 ・No.61:7月16日
 ・No.62:8月06日
 ・No.63:8月27日

9月からは通常通り隔週に戻ります。よろしくお願いいたします。


------ミニ書評--------------------------------
井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫)

改訂版が出たばかりの同書。これはまさしく一級の概説書です。イスラム神学や
スーフィズムから始まって、東方・西方のイスラム哲学をめぐっていくというも
ので、読み応えも十分の総論です。とはいえ、取り上げる個々の思想家につい
て、イスラムの歴史的文脈から丹念に説き起こすと同時に、ギリシアからの流入
や西欧中世への影響関係までバランスのよい目配せがなされているところなど、
欧米の類書でもなかなかこうはいかないという感じで、まさにイスラム学概論の
名著です。

例えば最後の方で比較的大きくページを割かれているアヴェロエスについては、
その伝記的逸話、アリストテレス伝承の受容、西欧に引き継がれるアヴェロエス
主義、そしてアヴェロエスの思想内容として、宇宙無始論、質料と形相の問題、
知性論、宗教と哲学の関係などなど、そのエッセンスが整理され、アヴェロエス
のもつ知的な広がり具合が全体的に浮上するという按配です。アヴェロエスの思
想には独特の面白さがあることを改めて感じさせます。トマス・アクィナスが論
駁した「知性単一論」などは、今日的な見地(認知論や脳科学など)から見直す
と、もしかしするととても面白い問題を孕んでいるかもしれません。

国際情勢の中で大きな場をしめるイスラム圏ですが、それもまた、根の部分から
理解しようとすることがますます重要になっていると思われます。と同時に、西
欧の中世について検討しようとすれば、とりわけ繁栄をきわめた8から12世紀頃
(ちょうど西欧の中世に重なります)の知的・文化的状況は、改めて押さえてお
きたいものだと思います。原典にあたったり各論に進んだりするための準備とし
て、同書は有益な一冊です。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第10回:名詞の第三変化

今回は名詞の第三変化を復習しておきましょう。第三変化名詞はラテン語の中で
一番につきやすいものですね。主格の語尾は実にいろいろですが、単数属格の語
尾が-isになるのが特徴的です。格変化はその属格を基準にして変化しますが、
属格から主格の形は一見連想されにくいので、最初はちょっと面倒にも思えます
が、これも慣れるしか(覚えるしか)ありません。いくつかの単語で、主格と属
格の形を見てみましょう。

cor(心)→ cordis、judex(審判)→ judicis
sanguis(血) → sanguinis、conjux(配偶者) → conjugis

複数形の属格は、語尾が-umと-iumとに分かれます。単数の主格と属格の音節数
が一致しない場合(属格の方が多くなります)には-um、一致する場合には-ium
になるのでした。例を見ましょう。

agmen(群れ) → 単数属格はagminis(音節数が一致しない) → 複数属格は
agminum
avis(鳥) → 単数属格はavis(音節数は一致) → 複数属格はavium
iter(道) → 単数属格はitineris(音節数が一致しない) → 複数属格はitinerum

ただし例外もあって、pater(属格はpatris)、mater(matris)、juvenis
(juvenis)、canis(canis)などは、音節数が一致してもpatrum、matrum、
juvenum、canumのようになります。

変化で注意する点はほかに、中性名詞の場合に主格と対格が一致することなども
あります。corpus(身体)やmare(海)などがそれに当たります。

rex(王)、civis(市民)、urbs(都市)など、よく使われる名詞は活用形を確
認しておきたいところですね。余談ですが、ローマ法王がカトリック世界に向け
て述べる祝福の言葉を「urbi et orbi」(都(ローマ)と世界に)というのでし
た。ひるがえって「あまねく、万人に」といった意味にも用いられますが、形か
ら言えば、urbsの与格とorbisの与格です。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その7

今回は提題の9と10を見てみましょう。例によって原文はこちらに挙げておきま
した。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000520.html

# # #
(9):自足するものはすべて、その本質においても現実態においても、自足し
ないものに勝るが、目的因となる他の本質に従属する。
 もし存在がすべて、その性質において善に向かうものであり、みずからにおい
ても善を示すのであるならば、それは他の善が欠落しているのであり、善を求め
る明らかな原因となっていて、その原因は離れて存在する。示された向かうべき
ところに近づくほど、原因をなす欠落から離れているものに勝っていくだろう。
他方、実在や現実態の完成を他所から得るものにも勝るだろう。さらに、自足す
るものは、その善に相似しつつもそれに劣り、いっそう相似するものになるが、
その善への関わりではより劣っている。なにしろそれは最初の善そのものではな
く、それに類するものであり、みずから善を有しうるだけなのだ。善に与るも
の、しかも他を通じて与るものは、最初の善とはいっそう離れてある。最初の善
は善以外のなにものでもない。

(10):自足するものはすべて、十全たる善に比べ欠落部分が大きい。
 自足するものとは、みずから、またそれ自身において獲得した善以外のなにも
のであろうか?それはすでに善に満たされ、善に与っているが、十全たる善その
ものではない。善に与り、満たされていることは、上に示したように、他を圧し
てはいる。もし自足するものが、みずから善に満たされているのならば、みずか
らが満たされている当のものによって、自足するものに勝り、自足を越えている
ことになる。十全たる善には何も欠けているところがない。それは他に向かうこ
とがない(というのも、善に足りないものが欲求を抱くのだからだ)。自足する
ものはそうはいかない。というのも、善に満たされてはいるが、最初の善ではな
いからだ。
# # #

善そのもの、というのは最高善、つまり「一者」と同義で、これのほかに、自足
するもの、自足しないもの(存在するもの一般)という区別が出てきました。善
の強度として、順に最高善、自足するもの、自足しないもの、という序列が出来
ていることがわかります。このあたり、まさに「発出論」的(最高善から善が溢
出していくという考え方)な考え方です。光が光源から遠ざかれば弱まるよう
に、善もまた序列に沿って漸減していくのでしょうか。

けれどもそれが静的でないのは、善が弱まっていれば、いっそう善を求めるとい
う性向があるのだ、という考え方が付随するからです。今回のところでとりわけ
注目されるのは、善に向かう傾向は欠落から生じる、つまり完全でないものが完
全なものへと向かう、という考え方です。「最初に欠如ありき」なんていうと、
20世紀の精神分析とか物語の記号論とかを彷彿させたりもしますが、この「不
完全性」の思想というか感覚というかは、古くから綿々と受け継がれているもの
なのですね。たとえばこれはアリストテレスにも見られる議論です。アリストテ
レスの質料形相論では、「ステレーシス」(欠如・剥奪)は質料が形相を受け取
ろうととする因とされています。上のテキストの場合は「エピデオー」(欠く、
必要とする)ですから、言葉としてはニュアンスが違いますが、考え方自体は通
底しているように思われます。

アリストテレスが流入した13世紀の西欧にも、このあたりの考え方は受け継が
れ、また独特な解釈を生じさせるようです。イタリアの中世思想史家で、ダンテ
研究などで知られるブルーノ・ナルディの『中世哲学研究』("Studi di filosofia
medievale", Edizioni di Storia e Litteratura, 1960)によると、ロバート・グ
ロステスト、トマス・アクィナス、アルベルトゥス・マグヌスなど、それぞれ解
釈は異なるものの、基本線として、質料に形相の胚芽が内在するという考え方
(もとはアヴェロエスの説)を取り入れていて、その説明原理としてこの欠落概
念(privatio)が持ち出されているといいます。当時はアリストテレスの影響
で、それまで単なる容器として理解されていた質料に実は潜在的な力が内在して
いるのだ、という考えに移行していくのですが、同書によると、どうやらそうし
たシフトも、必ずしもアリストテレスの流入だけに帰される影響ではなさそうで
す。今回取り上げている欠落の発想が新プラトン主義に見られる点からしても、
系譜な単線的ではないことが改めてわかります。より大きな思想潮流で捉えない
といけないのかもしれませんね。このあたり、興味の尽きない問題です。

次回は提題11を見ていきます。「存在の原因としての一者」という、ある意味
で核心的な部分です。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行ですが、夏期は2週おきとします。次回は07月16日
の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
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投稿者 Masaki : 00:09

2005年06月25日

講読用原文7

(9.)  Πᾶν τὸ αὔταρκες ἢ κατ’ οὐσίαν ἢ κατ’ ἐνέργειαν κρεῖττόν
ἐστι τοῦ μὴ αὐτάρκους ἀλλ’ εἰς ἄλλην οὐσίαν ἀνηρτημένου τὴν
τῆς τελειότητος αἰτίαν.
   εἰ γὰρ ἅπαντα τὰ ὄντα τοῦ ἀγαθοῦ κατὰ φύσιν ὀρέγεται, καὶ
τὸ μὲν ἑαυτῷ παρεκτικόν ἐστι τοῦ εὖ, τὸ δὲ ἐπιδεὲς ἄλλου, καὶ
τὸ μὲν παροῦσαν ἔχει τὴν τοῦ ἀγαθοῦ αἰτίαν, τὸ δὲ χωρὶς
οὖσαν, ὅσῳ δὴ οὖν ἐγγυτέρω τοῦτο τῆς τὸ ὀρεκτὸν χορηγούσης,
τοσούτῳ κρεῖττον ἂν εἴη τοῦ τῆς κεχωρισμένης αἰτίας ἐνδεοῦς
ὄντος καὶ ἀλλαχόθεν ὑποδεχομένου τὴν τελειότητα τῆς ὑπάρξεως
ἢ τῆς ἐνεργείας. ἐπεὶ οὖν [ὅτι καὶ ὅμοιον καὶ ἠλαττωμένον ]καὶ
ὁμοιότερόν ἐστιν αὐτῷ τῷ ἀγαθῷ τὸ αὔταρκες καὶ ἠλαττωμένον
τῷ μετέχειν τοῦ ἀγαθοῦ καὶ μὴ αὐτὸ εἶναι τὸ ἀγαθὸν πρώτως,
συγγενές πώς ἐστιν ἐκείνῳ, καθόσον παρ’ ἑαυτοῦ δύναται τὸ
ἀγαθὸν ἔχειν· τὸ δὲ μετέχον καὶ δι’ ἄλλου μετέχον μειζόνως
ἀφέστηκε τοῦ πρώτως ἀγαθοῦ καὶ ὃ μηδέν ἐστιν ἄλλο ἢ ἀγαθόν.

(10.)  Πᾶν τὸ αὔταρκες τοῦ ἁπλῶς ἀγαθοῦ καταδεέστερόν
ἐστι.
   τί γάρ ἐστιν ἄλλο τὸ αὔταρκες ἢ τὸ παρ’ ἑαυτοῦ καὶ ἐν
ἑαυτῷ τὸ ἀγαθὸν κεκτημένον; τοῦτο δὲ ἤδη πλῆρές ἐστι τοῦ
ἀγαθοῦ καὶ μετέχον, ἀλλ’ οὐχὶ αὐτὸ τὸ ἁπλῶς ἀγαθόν. ἐκεῖνο
γὰρ καὶ τοῦ μετέχειν καὶ τοῦ πλῆρες εἶναι κρεῖττον, ὡς δέδει‑
κται. εἰ οὖν τὸ αὔταρκες πεπλήρωκεν ἑαυτὸ τοῦ ἀγαθοῦ, τὸ ἀφ’
οὗ πεπλήρωκεν ἑαυτὸ κρεῖττον ἂν εἴη τοῦ αὐτάρκους καὶ ὑπὲρ
αὐτάρκειαν. καὶ οὔτε ἐνδεές τινος τὸ ἁπλῶς ἀγαθόν. οὐ γὰρ
ἐφίεται ἄλλου (εἴη γὰρ ἂν ἐλλιπὲς ἀγαθοῦ κατὰ τὴν ἔφεσιν )·
οὔτε αὔταρκες· εἴη γὰρ ἂν πλῆρες ἀγαθοῦ, καὶ οὐ τἀγαθὸν
πρώτως.

投稿者 Masaki : 10:51

2005年06月15日

No.59

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.59 2005/06/11

------ミニ書評------------------------
『超越に貫かれた人間』(K. リーゼンフーパー著、創文社、2004)

思想史もある意味で歴史学の一部をなしているわけですが、これがやや特殊なの
は、それが思想の営為に取り組む学でもあるからです。「思想」の方に傾くか、
「史」の方に傾くかで、当然取りうるスタンスも異なってきます。後者に傾く場
合、「○○の概念は△△がもとだとされているが、実は××がもっと古い」と
いった思想の系譜を追っていく作業が主になっていきます(もちろんそれだけで
はありませんけどね)。それはそれで実に大きな知的興奮に包まれるわけです
が、その場合に警戒しなくてはならないのは、知識編重の陥穽です。極端な場
合、「○○の概念」がある思想家の中でどう位置づけられ、その思想家にとって
どういう意味をもっていたのか、なぜそういう概念が採用されなくてはならな
かったのか、といった思想の内実についての包括的な視点がおなざりになる危険
も出てくるように思います。内実への包括的な視点を得るためには、前者、つま
り「思想」に傾くしかありません。その場合の原典との対話は、いっそうの緊張
感を孕みます。というのも、それは「○○の概念」を出してきた著者を追体験し
ようと試みることであり、とりもなおさず読み手である自分にとってそれがどう
いう意味をもつのかを問うことになるからです。結局、両方の傾きのバランスを
どう取るかは大きな問題になっていきます。

そういう意味では、思想史家が記す、思想の側に大きく傾いた著書を読むのは大
きな愉しみでもあります。K. リーゼンフーパー著『超越に貫かれた人間』はま
さにそんな一冊です。神学者、中世思想史家として名高い著者が、2002年に長
崎で行ったレクチャーを再録したものということですが、副題に「宗教哲学の基
礎づけ」とあるように、哲学的営為の果てに宗教的なもの(制度としての宗教で
はなく、いわばなんらかの「超越」概念に対する畏怖と敬意の源泉ですね)にい
かに接近しえるかという問題が、実に真摯かつ実践的に論じられています。自分
自身の内面を見つめ直すための、その道案内という風でしょうか(とはいえやや
晦渋ではありますが……)。

内面の見つめ直し、と簡単に言ってしまいますが、当然一筋縄ではいきません。
その困難な作業を支えるために、先人である様々な哲学者・神学者の議論があ
り、それらを傍らに置いて参照しながら、内面の奥へと接近していこうとする…
…。なるほど、それは古来から多くの人々が存在論・認識論として行ってきた営
為です。とはいえいつの時代も、それ以前の古い時代の人々が残した文章は、そ
うした内奥への接近過程をかいま見させてくれる断片でしかありません。誰もが
各自で辿り直さなければならない……そこが哲学的営為というものの面白さなの
ですね。

同書では、まず人間の無制約性から超越的なものの認識がいかに導かれるか、次
にそれがどういう形式で構成されるか、さらにはそこから宗教的なものがどのよ
うに現れてくるか、といった問題をめぐっていきます。アウグスティヌスからハ
イデガーまで、その過程で様々な思想家が引用されて、当該問題へのそれぞれの
アプローチも言及されます。思想史は本来どのように活用されうるのか、私的で
あると同時に普遍の相をももつ問題への接近のために、思想史をどのように携え
ていけばよいのか、という実践的な課題へと思想史を開く試みでもあるかもしれ
ません。そういう探求の場において活用できること……思想が血肉化するという
のは、そういうことを言うのでしょう(なにもそれは、先人の思想を批判もなし
にそっくり受け継ぐことではありません)。知識を増やしていくことはもちろん
大事ですが、血肉化することの重要性も、また真剣に受け止める必要がありそう
です。

著者はそうした思考の実践を通じ、その上でなお未踏の哲学的問題を見いだして
います。それが末尾で示唆される「祈り」の哲学的理解(現象学的・人間学的)
です。これと並び称される対人関係の問題は、現代思想の中でいくつかのアプ
ローチが始まっているようですが、「祈り」をめぐっては、確かにまだこれと
いったアプローチは出てきていないように思えます。世界的に先行きの不透明感
や不安が蔓延する中、宗教的なものの問い直しはますます急務になってきている
ように見受けられます。「祈り」の考察も、思想史的探求ともども(それを伴う
形で)、取り組みがいのある課題になっていきそうですね。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第9回:従属接続詞(直説法を取るもの)

大学書林から新しいラテン語辞書が出たようですね。『古典ラテン語辞典』(国
原吉之助著)です。同じ体裁の『ギリシア語辞典』などと同じシリーズですね。
ギリシア語の方はやはり多少訳語に難ありという感じですが、まあそれなりに重
宝しています。さてこちらはどうでしょう?まだ内容は見ていないし、3万
6750円とお値段は張りますが、日本語で引ける辞書として研究社の『羅和辞
典』以外が出てきたというのは心強いかもしれませんね。ちなみに、この著者に
は、書店では現在入手不可のようですが『中世ラテン語入門』という著書もある
ようです。

さて、今回の文法トピックスは従属接続詞です。二つの文が接続詞でつながれて
いて、一方の文が他方の文(節といいます)の説明になっていたり、時間的に前
後していたりする場合、その接続詞は従属接続詞と呼ばれるのでした。従属接続
詞は意味的に4種類に大別されます。時間を表すもの、比較を表すもの、条件を
表すもの、原因を表すもの、の4つです。では、ごくごく基本的なところをリス
トアップしておきましょう。

時間を表すもの:
ut、cum、ubi、quando(〜の時)、dum(〜の間)
postquam(〜の後)、antequam(〜の前)
ut primum、ubi primum(〜するやいなや)

比較を表すもの:
ut、sicut、velut(〜のように)

条件を表すもの:
si(もし〜ならば)、nisi(もし〜でないならば)

原因を表すもの:
quod、quia、quoniam(なぜなら)、ut(〜なので)

utなどは文脈に応じて訳し分けが必要になります。また比較を表すsicutなどが
使われる場合、主節の方にsicやitaがあって、それと分かる場合もあります。例
文を挙げましょう。"sic est hoc verum, sicut saxa ista sunt aurum"「それら
の石が黄金であるというのと同じように、それは真実だ」= 「それが本当だとい
うのは、それらの石が黄金だというのと同じだ(だから嘘だろ、というこ
と)」。

(参照テキスト:"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その6

今回は提題8を見ていきます。原文はこちら:

# # #
(8):なんであれ善に関わるもののいっさいは、最初の善に従属するのであ
り、それ(最初の善)は善以外ではありえない。

存在がすべて善に向けられるのだとしたら、最初に善が存在に対峙していること
は明らかである。善がいずれかの存在と同一であるなら、存在と善は同一とな
り、その存在は善に向けられるのではまったくなくなる。それは善として存在す
るからだ。求められるものとは、求められる際に欠けているものであり、求める
対象と異なるものは排除される。それは存在とも異なり、善とも異なるからだ。
存在は関わるものとしてあり、それ(存在)において関わられるものとしてある
のが善である。その場合の善は、それに関わるなんらかの存在の中にあり、関わ
るものだけがそこに向けられる。だがそれは、すべての存在が向けられる十全た
る善ではない。あくまで向けられる存在に共通する対象なのだ。そのなんらかの
ものの中に生ずる善のみが、関わりをもとうとするものにとっての唯一の善なの
である。

最初の善はといえば、それは善以外のなにものでもない。何か別のものが先行す
るのであれば、その善は先行されることによって減じ、十全たる善に対する個別
の善となる。先行されるものは善(十全たる)ではなく、それよりも劣ったもの
であり、みずから集合をなすことによって善は減じるのである。
# # #

今回から次回にかけて見る箇所は、善についての話です。今回つけた訳では
ちょっと明確でないかもしれませんが、個別の存在が求める善と、原初の善とは
違うのだという議論になっています。存在がおのおの見いだす善は、最初の善か
ら派生した「減じられた善」だということなのですね。ここでもまた、これまで
見てきたような超越の考え方が見いだされます。「善」の思想として有名なの
は、新プラトン主義の大御所プロティノス(3世紀)の流出論ですね。流出論と
いうのは、全存在を支配する究極の「一者」が、おのれの善性を分有させるため
にみずから溢出してあらゆる存在を段階的に作り出していく、という考え方で、
プロティノスの場合には、段階は三つ、つまり「一者」「叡知」「霊魂」とされ
ています。

前回少しだけ能動知性について触れましたが、それもこうした流出論に関係しま
す。復習しておくと、能動知性はもともと、アリストテレスのnous poie_tikos
(つくる知性:『魂について』第3巻)に後世の人々が解釈を加えることによっ
て受け継がれるようになった概念です。能動知性を神、可能知性を人間と見なす
図式ができたのは、もとはアプロディシアスのアレクサンドロス(3世紀初頭)
によるものだとされます。この図式によると、人間が生まれながらにもっている
可能性としての知性は、天空の世界から働きかける知性(能動知性)によって現
実態になるのですね。ところが前回触れたように、アルベルトゥス・マグナスと
その弟子たち(トマス・アクィナスも含まれます)は、能動知性は天空の世界に
超然としているのではなく、人間の魂の一部をなしていると考えています。

最近改訂版が出たばかりの井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫)による
と、こうした隔たりの中間に位置する興味深い思想家に、ファーラービー(10
世紀、トルコ系の思想家)がいます。ファーラービーの場合、能動知性は人間界
の質料と形相を結合させる働きをするものの、それ自体は質料とは結合しない純
粋形相であるとされているようです。天使のような存在として仮構されているわ
けですね。ファーラービーの知性論は大きな問題となったといい、後には、「能
動知性は単一だが可能知性は個々人で異なる」としたアヴィセンナや、「そもそ
も知性は一つしかない」とするアヴェロエスなどが出てくるわけですね。このあ
たりも西欧に入ってきてアルベルトゥス以後の知性論が展開していきます。

興味深いのは、前に触れたプロクロスの焼き直し本『原因について』(中世盛期
に流布し誤ってアリストテレス作とされていた作品ですが、もともとは9世紀ご
ろに『神学提要』のアラビア語訳を編纂・補足したもの)です。上のプロティノ
スの「一者」と「叡知」の間に、永遠性の次元に成立する「実有」が加えられ四
段階になっているのですね。一者はいわば完全な無なので、具体的な働きかけを
なす実体がもう一つ必要になったということなのでしょうか。ファーラービーの
場合も、能動知性にいたる前の流出の諸段階が細かく分けられているようです。
そのあたりとプロクロス思想との関連はあったのか、なかったのか……そんなこ
とも含めて、プロクロスの知性論・流出論も見ていく必要がありそうです。

とりあえず次回は引き続き提題9と10を見ていきます。お楽しみに。

投稿者 Masaki : 15:57

2005年06月11日

講読用原文6

(8.)  Πάντων τῶν ὁπωσοῦν τοῦ ἀγαθοῦ μετεχόντων ἡγεῖται τὸ
πρώτως ἀγαθὸν καὶ ὃ μηδέν ἐστιν ἄλλο ἢ ἀγαθόν.

   εἰ γὰρ πάντα τὰ ὄντα τοῦ ἀγαθοῦ ἐφίεται, δῆλον ὅτι τὸ
πρώτως ἀγαθὸν ἐπέκεινά ἐστι τῶν ὄντων. εἰ γὰρ ταὐτόν τινι
τῶν ὄντων, ἢ ταὐτόν ἐστιν ὂν καὶ τἀγαθόν, καὶ τοῦτο τὸ ὂν (5)
οὐκέτι ἂν ἐφιέμενον εἴη τοῦ ἀγαθοῦ, αὐτὸ τἀγαθὸν ὑπάρχον· τὸ @1
γὰρ ὀρεγόμενόν του ἐνδεές ἐστιν οὗ ὀρέγεται, καὶ τοῦ ὀρεκτοῦ
[ἕτερον καὶ ]ἀπεξενωμένον· ἢ τὸ μὲν ἄλλο, τὸ δὲ ἄλλο· καὶ τὸ
μὲν μεθέξει, τὸ ὄν, τὸ δὲ ἔσται μετεχόμενον ἐν τούτῳ, τὸ ἀγαθόν.
τὶ ἄρα ἀγαθόν ἐστιν, ἐν τινὶ τῶν μετεχόντων ὄν, καὶ οὗ τὸ (10)
μετασχὸν ἐφίεται μόνον, ἀλλ’ οὐ τὸ ἁπλῶς ἀγαθὸν καὶ οὗ πάντα
τὰ ὄντα ἐφίεται. τοῦτο μὲν γὰρ κοινὸν πάντων ἐστὶ τῶν ὄντων
ἐφετόν· τὸ δὲ ἐν τινὶ γενόμενον ἐκείνου μόνον ἐστὶ τοῦ μετα‑
σχόντος.

   τὸ ἄρα πρώτως ἀγαθὸν οὐδὲν ἄλλο ἐστὶν ἢ ἀγαθόν. ἂν γάρ (15)
τι ἄλλο προσθῇς, ἠλάττωσας τῇ προσθέσει τὸ ἀγαθόν, τὶ
ἀγαθὸν ποιήσας ἀντὶ τοῦ ἀγαθοῦ τοῦ ἁπλῶς· τὸ γὰρ προστεθέν,
οὐκ ὂν τὸ ἀγαθὸν ἀλλ’ ἔλαττον ἢ ἐκεῖνο, τῇ ἑαυτοῦ συνουσίᾳ τὸ
ἀγαθὸν ἠλάττωσεν.

投稿者 Masaki : 11:04

2005年06月01日

No.58

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.58 2005/05/28

気候の変化に追いつけず、風邪を引いてしまいました。皆さんもお気を付けくだ
さい。そんなわけで今回は短縮版とし、中世の古典語探訪「ラテン語編」はお休
みします。

------新刊情報--------------------------------
新刊情報がいくつか届いています。

○『中世ヨーロッパ万華鏡 3 名もなき中世人の日常』
エルンスト・シューベルト著、藤代幸一訳、八坂書房
ISBN 4-89694-739-8 2,940yen

3巻本と予告されていた『中世ヨーロッパ万華鏡』の3巻目。前2巻は、新しい視
点というよりは概論的な面に重点が置かれていたように思いました。中世後期の
賭博場、娼家、形場などを題材とする「新たな日常史の試み」といううたい文句
ですが、民衆史のいろいろと難しい問題をどう処理しているのか、気になります
ね。

○『西欧中世形成期の農村と都市』
森本芳樹著、岩波書店
ISBN 4-00-023651-2 11,550yen

以前、所領明細帳の詳細な分析を記した『中世農民の世界』(岩波書店)が興味
深かった著者による論集のようです。こちらにもブリュム修道院の所領明細帳の
分析や賦役労働の研究などが収録されているようですが、個人的に面白そうなの
は、第3部の中世初期市場の形成問題あたりでしょうか。経済活動の中世史はと
ても重要な分野だと改めて思います。

○『世界の体験』
フォルカー・ライヒェルト著、井本・鈴木訳、法政大学出版局
ISBN 4-588-00819-6 5,250yen

まずもってタイトルがいいですね。副題は「中世後期における旅と文化的出会
い」となっていて、旅の歴史を追いつつ、異文化の発見過程を追った一冊のよう
です。内容紹介にある、誤解や偏見がどこから生じるか、といった問題は、今の
ようなグローバル化の時代にこそ重要になってくるはず。ヨーロッパが他地域を
どのように見い出していくのかを、ぜひ振り返ってみたいところです。


------Webサイト情報-------------------------

新着のWebサイト情報。今回はフランスから。

○「中世に光を当てる--フランス図書館の至宝」
http://www.moyenageenlumiere.com/

一般向けの教育的なサイトはいろいろありますが、比較的最近のものがこれ。基
本的には図書館所蔵の図版(細密画や稀覯本など)を紹介するページで、販売し
ているDVD-ROMのオンライン版のようです。英語とドイツ語にも対応しようと
しているようですが、これはまだまだ一部分のみ。また、拡大ボタンなどを押す
と、「まだ公開していないので、後で来るかDVDを参照してください」なんて表
示されるのも玉に瑕ですが、美しい図版は見ているだけで楽しいですね。専門家
チームによるものだという解説も参考になります。


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その5

今回は提題7を見ていきます。提題7から13までは因果関係の話になります。例
によって原文はこちらに挙げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000495.html

# # #
(7):導きうるものはすべて、導かれるものよりもピュシスにおいて勝ってい
る。

ものは勝っているか、劣っているか、等しいかのいずれかである。

まずは等しいとしてみよう。すると、それ(等しいもの)によって導かれるもの
は、力があり他の任意のものを導けるか、あるいはまったく生み出す力がないか
のいずれかである。だが、仮に生み出す力がないならば、それが導かれた元のも
のよりも劣ることになり、その元のものと等しくはなくなる。生み出す力がある
もの、生成する力をもつものに比べ弱い存在ということになってしまう。次に、
それが他を導けるのであるなら、まずみずからと同じものを導く場合がある。み
ずからも他に加わり、すべて相互に等しい存在となって、何も他に勝ることがな
く、導くものに常にみずから等しくなり、順次置き換わることができる。また、
異なるものを導く場合もある。その場合、それを導く元のものと等しくはなくな
る。同じ力をもつものは、等しいものを生成する。よって、そこから生じるもの
が互いに異なるのであれば、導くものはそれ以前のものに同等であって、それ以
後のものには等しくない。その場合、導かれるものは導くものに等しくなくな
る。

だが、導くものが劣ることはない。導かれるものに存在が与えられる場合、その
ことによって、それ(導かれるもの)には存在するための力が供される。それ以
後のものに十全な力を導きうるのであれば、みずからをもそのようなものにでき
るだろう。その場合、みずからをより力あるものにするだろう。力のないものが
生成力の発現を妨げることはないし、指向しないものも同様である。あらゆるも
のはピュシスにおいて善を求めるからである。よって、他をいっそう完全なもの
にできるのなら、それ以後のものの前に、みずからを完全なものにするだろう。

このように、導かれるものは導くものと等しくはないし、勝ってもいない。いか
なる場合であれ、導くものは導かれるものにピュシスで勝っている。
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「導くもの」「導かれるもの」と訳出したparagon、paragomenonは、要する
に「他へ働きかける因」「他の働きかけによって生じた結果」ということでしょ
う。原因から結果へと力は減じる、というと、一見エントロピーの法則のようで
すが、実はそういうエネルギーの漸減の話ではありません。ここでいう力という
のは、それが本質として(ピュシスにおいて)持っている生成力とされますか
ら、位置エネルギーのようなものを連想すればよいでしょう。原因は結果よりも
高いポテンシャル(位置エネルギー)をもっている、ということです。原因は結
果よりも上位にあるのですね。

中世において受容されたキリスト教化したプラトン主義の考え方に、そうした位
階の概念が現れています。天球から地上の被造物にいたるまで、世界はすべて序
列をなしているとされ、天使もまた序列に位置づけられます。このあたりの話
は、ディオニュシオス・アレオパギタのものとされた(誤って)テキスト類によ
く現れています。ディオニュシオスの受容はプロクロスの受容よりも相当早くか
らなされていて、代表的な人物としてはアイルランド出身で9世紀にシャルル禿
頭王に仕えた神学者ヨハネス・スコトゥス・エウリゲナが挙げられます。

前回述べたように、プロクロスをいち早く受容したのはアルベルトゥス・マグナ
スらライン地方のドミニコ会士たちでした。前回と同じく、アラン・ド・リベラ
の著書によると、アルベルトゥスやその弟子のフライベルクのテオドリクス
(ティエリーないしデートリッヒ)の独特な考え方に、「quod est(存在するも
の)」と「quo est(存在を成立させる当のもの)」という区分があります。こ
れは個体論の文脈でボエティウスが唱えた区別がベースだと言われますが、アル
ベルトゥスの場合には、それを魂にまで適用する点が独特なのですね。人間の魂
の中に、そうした区分を設けることができる、つまり人間の魂は構成的に成立し
ている、というわけです。そう考えるのは、アルベルトゥスがアヴィセンナの
「魂とは知的実体である」という論を受け継いでいるためだ、とされますが、こ
れらはちょうど、上のparagomenon、paragonの概念に呼応しているようにも
思われます。アルベルトゥスの場合、知的実体は可能態・現実態が区別されて、
魂のquod estは可能知性、quo estは能動知性というふうに振り分けられます。
後者が前者を導くことによって魂は成立する、ということになるようです。こう
した構成的な魂の理解の上に立って、アルベルトゥスは能動知性を魂の中の神の
イメージと解釈します。それは「私たちの中の光、認識をもたらす第一原因」だ
というわけですね。プロクロスもまた、上の因の論から第一原因の論へと向かっ
ていきます。

ちょっと先走りぎみになってしまいましたが、プロクロスにおける原因・結果の
議論を、しばらくはゆっくりと見ていきたいと思います。

投稿者 Masaki : 23:27