2008年06月05日

オリヴィの自発的志向性論

13世紀のフランシスコ派の神学者ペトルス・ヨハネス・オリヴィは、画期的な自由意志論を展開したことで知られているけれど、その著作を読むための準備の一環として、ドミニク・ペルレールの『中世の志向性理論』(Dominik Perler, "Théories de l'intentionnalité au Moyen Âge", Vrin, 2003)をざっと半分ほど(オリヴィの章まで)読む。講演録なのだけれど、なかなか興味深い。ここでいう志向性(intentionnalité)というのは、知性が外的な事物を理解する際に、それがどのように対象を捉えるのかという問題に関して出てくるもの。モノを把握し理解する際に、そのモノを志向するのはいかなる作用によるものなのか、が問われる。それはまた、感覚的与件と知性とをつなぐコプラをどう考えるかということでもある(コプラを設定するかしないかも含めて)。13世紀に優勢だったアリストテレス思想に従うと、知解とは知解可能なものの作用を知性が受け取る(本性的に)というあくまで受動的な所作ということになってしまうわけだれけど、これに対して、知性の働きはそんな受動的なものではなく、より能動的な所作だという立場を取る人々が現れた。その一人がオリヴィだというわけだ(ほかに同書では、フライブルクのデートリッヒ、ドゥンス・スコトゥスが取り上げられる)。

オリヴィはスペキエスの考え方を、外的な実体を遮断してしまうものとして捉え批判し、知性と外的な実体の関係は直接的であって、志向性の源泉は知性そのものにある、という立場を取るのだという。知性そのものに対象が仮想的・潜在的に現前することがすなわち志向性なのだ、という議論になるらしい。ペルレールはしかしながら、これでは循環論法になってしまうと指摘している。知性に見られる志向性がどこから生ずるかとの問いに対して、知性の作用そのものが志向性だと答えるわけだからね。でも、これは同時に対象との関係論でもある、という点がとても気になる。ぜひテキストに当たらねば(笑)。

投稿者 Masaki : 23:35

2008年05月13日

シゲルスの「分散型?」知性論

かなり前に購入しつつ、読むのは諸事情でちょっと滞り気味だったけれど、とりあえずブラバントのシゲルス「『魂について』第三巻問題集」を読了。底本はアントニオ・ペタジエ編の"Sigeri di Brabante - Anima dell'uomo"(Pompiani, 2007)。これは1277年のタンピエの禁令前のテキストだということで、同じく収録されている「知性的魂論」(こちらは禁令後で、ちょっと釈明的な見解が強く打ち出される感じ)よりもはるかにストレートに哲学的立場を示している。つまり、単一知性論がかなりストレートに展開する。これがまた実に面白い。知性は単一であるというわけだけれど、トマスが批判するような議論とは少々違い、その単一性というのはやや意外にも奥深い。そもそもそれは質的な単一性で、数的な単一性ではないとされているし、個々人が個別に思考することには変わりがなく、ただ知性は非実体的で(トマスの考える身体の実体的形相というのとは違って)身体と直接結びつくものではない、という話になる。そのため、身体と知性とをつなぐものとして想像的意志といったものが想定され、これを通じて身体が感覚として受け取ったものを知性の側に橋渡しする、ということになる。なるほど、まさにカントの悟性の働きを先取りするような構図だ。しかもなんだか知性論全体の構図を考えると、どこかシンクライアントとしての可能知性、分散型のサーバとしての能動知性という感じにもなる(かな?笑)。アヴェロエスの能動知性はどこか実体的・分離的な感じがしたけれど、シゲルスのほうはそれ自体が個々人の中に組み込まれるというように読める。

いずれにしても、アガンベンの『スタンツェ』の話にも重なるしその後追いになってしまうけれど、知性と身体を結ぶ「コプラ」の系譜を少し追い直してみたい気にもなってきた。

投稿者 Masaki : 23:21