2008年10月11日

再びオリヴィの自己認識論

うーん、トマスなどとは対極的な13世紀のフランシスコ会の論客、ジャン・オリヴィもなかなかに面白い。少し前に読んだドミニク・ペルレールの『中世の志向性理論』では、ジャン・オリヴィの場合、知性が対象に向かう際の志向性というのを知性にあらかじめ内在する性向という形で規定していて、その志向性そのものが問われない点をペルレールが指摘していたわけだけれど、それよりも少し前の論考として、フランソワ=グザヴィエ・ピュタラズ『13世紀の自己認識』(François-Xavier Putallaz, "La connaissance de soi au XIIIe siècle", Vrin, 1991)を読んでいるところ。ちょうど2章目のオリヴィの章。トマスが論じるような、スペキエスを挟んでの感覚と知性との結びつきといった議論にオリヴィはまっこうから反対する。ここで問題となるのが自己認識。その場合の知解対象は何か、という問いから、オリヴィは独創的な思想へと突き進む。まずは経験的な暗黙知的な次元での自己認識。それはあくまで知性的なものなのだけれど、感覚的な要素を取り込んでもいて、オリヴィは両者を分離するのではなく、両者が渾然一体となったようなものを想定していて、感覚的体験と感覚世界の知的な理解は一続きのものなのだという。さらにそこから導かれるのは、知解対象とは結局普遍などではなく、あくまで個でしかないというかなりラディカルな議論だ。このあたりの論の展開は、ほとんどオリヴィの『命題論第二書の諸問題』問76に集約されているらしいので、これはぜひとも読んでみたいところ。

ピュタレズのこの本はかなりピンポイント的で手際よい整理だという気がする。このほか、ロジャー・マーストン、フォンテーヌのゴドフロワ、フライベルクのディートリヒなどで各章が立てられている。また興味深い箇所があればメモとして取り上げることにしよう。

投稿者 Masaki : 23:37

2008年09月11日

ディアパネース

現在ざざっと目通し中なのが、アンカ・ヴァジリウ『透明なるもの』(Anca Vasiliu, "Du Diaphane", Vrin, 1997)。アリストテレスの『霊魂論』に出てくる、事物を視覚的に分別させつつそれ自体は目に見えない「透明なるもの」(διαφανής)(418b 28など)について、その史的な変遷などをも含めて、現象学的な手触りでもって読み解こうとする、ちょっと変わり種の面白い研究。現象学的な哲学史というものの試みかもしれない。著者はまず、アリストテレスにとっての「透明なるもの」が、事物の視覚的成立に関わる実体で、特にその現実態として光があるのだということを、アリストテレスのテキストを丹念に読み込んで浮上させる。次に今度はテミスティオスの注解を取り上げる。するとそこでは、「透明なるもの」に意味にはズレが生じ、光を受け取る「等級」に即して、空気や水、さらには神的物体(第五元素)などの物体が「透明なもの」となり、視覚や知解を媒介する共通項の光そのものも、あくまでメタファー的な扱いになってしまうのだということが示される。テミスティオスにあっては、コスモロジー的な体系化がもたらされる一方で、視覚や知解の成立条件としての透明なるものは、その力を殺がれてしまう、というわけだ。

さらに著者は、アリストテレス思想のラテン中世での受容でも、大きなズレが生じていることを示してみせる。トマスは、感覚と知性との仲介をなすものとして像(phantasma)を考えはするのだけれど、その場合、現実態としての知性(知解の操作だ)は、感覚としての像の抽象化と、その像が知性に刻む印象との二重の操作によってもたらされる、としているのだという。つまり著者によれば、知解にいたるには、質料的な現実からの抽象化と、質料的な類似である像そのものの抽象化という二重の抽象化が必要になり、これはアリストテレスのより直接的な知解の図式とは異なるものだという。ドゥンス・スコトゥスもまた、普遍的なスペキエスと対象物の「所与のプレゼンス」との二重構造を考えている点で、同様にアリストテレス的ではない。では中世にアリストテレス的な視覚・知解論はなかったのかというと、著者はそれを意外なところに発見する。それがヨハネス・スコトゥス・エウリゲナによるディオニュシオス・アレオパギテスへの注解だ。そこでの知解は、光の類似によるモデルの写し取りとして展開するといい、それはディオニュシオスほかギリシア教父の伝統に見られるテーマだという。なるほど、このあたり、個人的にもちゃんと見てみたいところだ。この後、著者はアリストテレスの「透明なもの」のアルケーを求めて、エンペドクレスやプラトン「ティマイオス」をめぐっていくようだ。

投稿者 Masaki : 23:07

2008年08月21日

「中世の知覚理論」

シモ・クヌーティラ&ペッカ・カルッカイネン編の『中世・初期近代哲学の知覚理論』("Theories of Perception in Medieval and Early Modern Philosophy", ed. Simo Knuuttila, Pekka Kärkkäinen, Springer , 2008)という論集をちらちらと眺めてみた。2004年にヘルシンキで開かれたシンポジウムのペーパーを主に集めたものということで、16編が収録されている。プロティノスやストア派の知覚論、ある意味定番的なアヴィセンナの抽象化作用の議論、アヴェロエスの知性論のまとめも、個人的には参考になるけれど(アヴェロエスについては、刊行予定の『霊魂論大注解』の英訳に言及されていて、なるほど大注解はとても重要なものらしいことが改めてわかる)、ちょっと面白かったのは、ジャン・オリヴィの内的感覚について扱ったものや(やはりオリヴィの自己認試論あたりは面白そうではある--ラテン語テキストはちょっととっつき難い感じもするのだけれど)、アリストテレスの理論とガレノスやアヴィセンナの医学的著作を統合しようとしたというアーバノのピエトロについての話、トマスが感覚的・知的スペキエスを認識の対象そのものととらえていた、という持論をもとに、その弟子筋の認識論を追うおそらくは野心的な(?)小論などなど。シンポジウムの発表用ということで、全体には小粒な印象で、もとのテキストのまとめと言い換えをしたものが目立つ感じだけれど、やはりなにかこう、そこから先に展開するであろう研究の萌芽のようなものを、読む側にも感じさせるものが目を引くといったところ。

投稿者 Masaki : 23:39

2008年08月16日

シゲルス的テキスト

ブラバントのシゲルス「霊魂論第3巻注解」はすでに羅伊対訳本が手元にあるのだけれど、ついでがあってヘルダー社版の羅独対訳本(Siger von Brabant, "Über die Lehre vom Intellekt nach Aristoteles", Verlag Herder, 2007)も手に入れてみた。実は本文よりも付録が見たかった(笑)。付録は二つあって、一つは16世紀初めごろのイタリアの人文主義者、アゴスティノ・ニフォなる人物によるシゲルスの引用。トマスの「知性の単一性についてのアヴェロエス派に対する反論」に対するシゲルスの失われた再反論を、ニフォがパラフレーズしているものらしい。ブルーノ・ナルディによる研究から取っているのだとか。断章はどれもなかなか興味深く、とりわけトマスの反論(魂は身体の現実態としてもとより一体であるという立場)に対し、改めて身体と魂の分離・結合論(それがシゲルスの立場)が強調されているところが注目される。知性は一種の「半・魂」なのだというのが面白い(これってシゲルス?それともニフォのの考え?)。

もう一つの付録は、これまた逸名著者によるトマスへの反論文書。ここでも問題の核心をなすのは「身体と魂の分離・結合」の議論。トマスの場合、身体と魂がもとより分離していないという議論が大前提にあり、単一知性はありえないという話はそれに立脚する形で展開する。そのためこの非分離の議論には多くのページが割かれることになるわけで、となれば、当然トマスへの反論文書も、身体と魂は本来別もので、なおかつ結合しているという議論の擁護を長々としなくてはならないことになる……。うーん、でも、それだけでは道半ばという感じなのだが……。まあこれも文書としては一部分だけのようだけれど……。

投稿者 Masaki : 23:43

2008年08月09日

舟と船人の比喩

岩波書店の双書「哲学塾」から、神崎繁『魂<アニマ>への態度--古代から現代まで』(2008)をざっと。7日間の講義という体裁で、主に古代ギリシアからの「魂」の問題を俯瞰するという感じの一冊。個人的にとりわけ興味深かったのは、アリストテレスから中世がらみとなる「舟と船人の比喩」を扱った6日目、7日目の「講義」。なにしろまずはキリシタン版(キリスト教伝来時に持ち込まれた文献)に触れ、そこに記されている内容が神学論的にも最先端のものだったことなどが紹介されている。「自由」が今日とほぼ同じ意味で用いられている最古の日本語文献はそうしたキリシタン版なのだそうな。うーん、なるほど。

さらにまた、表題の「舟と船人の比喩」(アリストテレスが『魂について』で初めて用いた、魂と身体を表す比喩)の変遷が端的にまとめられていて参考になる。アフロディシアスのアレクサンドロスはこの「船人」を「舵取り」と言い換えて比喩の限定化をもたらし、プロティノスはさらにそれを「舵取り術」と捉えて「技術が道具に内在する」という形に変えていくのだそうだ。テミスティオスになると、この魂の部分を知性と読み替えて、知性と身体の分離可能性を示唆するわけだ。さらにはトマス(なぜかこの比喩をプラトンに帰しているそうだ)、さらに後期スコラのトレトゥスの形相の区分(形成的形相、介在的形相)の話まで言及されている。著者は、アリストテレスが「身体は魂のオルガノンである」と言う場合、オルガノンの一般的な訳語として「器官」とするのが普通だけれども、実は「道具」の意味が込められていたのではないかと指摘している。この魂と身体の関係の「技術」的な読み替えは、もしかしたらとても重要でないかしら、と。同書には、そのあたりの解釈の変遷にはまた別の講義が必要、と書かれているけれど、それはぜひお願いしたいところだ。

投稿者 Masaki : 22:48

2008年06月05日

オリヴィの自発的志向性論

13世紀のフランシスコ派の神学者ペトルス・ヨハネス・オリヴィは、画期的な自由意志論を展開したことで知られているけれど、その著作を読むための準備の一環として、ドミニク・ペルレールの『中世の志向性理論』(Dominik Perler, "Théories de l'intentionnalité au Moyen Âge", Vrin, 2003)をざっと半分ほど(オリヴィの章まで)読む。講演録なのだけれど、なかなか興味深い。ここでいう志向性(intentionnalité)というのは、知性が外的な事物を理解する際に、それがどのように対象を捉えるのかという問題に関して出てくるもの。モノを把握し理解する際に、そのモノを志向するのはいかなる作用によるものなのか、が問われる。それはまた、感覚的与件と知性とをつなぐコプラをどう考えるかということでもある(コプラを設定するかしないかも含めて)。13世紀に優勢だったアリストテレス思想に従うと、知解とは知解可能なものの作用を知性が受け取る(本性的に)というあくまで受動的な所作ということになってしまうわけだれけど、これに対して、知性の働きはそんな受動的なものではなく、より能動的な所作だという立場を取る人々が現れた。その一人がオリヴィだというわけだ(ほかに同書では、フライブルクのデートリッヒ、ドゥンス・スコトゥスが取り上げられる)。

オリヴィはスペキエスの考え方を、外的な実体を遮断してしまうものとして捉え批判し、知性と外的な実体の関係は直接的であって、志向性の源泉は知性そのものにある、という立場を取るのだという。知性そのものに対象が仮想的・潜在的に現前することがすなわち志向性なのだ、という議論になるらしい。ペルレールはしかしながら、これでは循環論法になってしまうと指摘している。知性に見られる志向性がどこから生ずるかとの問いに対して、知性の作用そのものが志向性だと答えるわけだからね。でも、これは同時に対象との関係論でもある、という点がとても気になる。ぜひテキストに当たらねば(笑)。

投稿者 Masaki : 23:35

2008年05月13日

シゲルスの「分散型?」知性論

かなり前に購入しつつ、読むのは諸事情でちょっと滞り気味だったけれど、とりあえずブラバントのシゲルス「『魂について』第三巻問題集」を読了。底本はアントニオ・ペタジエ編の"Sigeri di Brabante - Anima dell'uomo"(Pompiani, 2007)。これは1277年のタンピエの禁令前のテキストだということで、同じく収録されている「知性的魂論」(こちらは禁令後で、ちょっと釈明的な見解が強く打ち出される感じ)よりもはるかにストレートに哲学的立場を示している。つまり、単一知性論がかなりストレートに展開する。これがまた実に面白い。知性は単一であるというわけだけれど、トマスが批判するような議論とは少々違い、その単一性というのはやや意外にも奥深い。そもそもそれは質的な単一性で、数的な単一性ではないとされているし、個々人が個別に思考することには変わりがなく、ただ知性は非実体的で(トマスの考える身体の実体的形相というのとは違って)身体と直接結びつくものではない、という話になる。そのため、身体と知性とをつなぐものとして想像的意志といったものが想定され、これを通じて身体が感覚として受け取ったものを知性の側に橋渡しする、ということになる。なるほど、まさにカントの悟性の働きを先取りするような構図だ。しかもなんだか知性論全体の構図を考えると、どこかシンクライアントとしての可能知性、分散型のサーバとしての能動知性という感じにもなる(かな?笑)。アヴェロエスの能動知性はどこか実体的・分離的な感じがしたけれど、シゲルスのほうはそれ自体が個々人の中に組み込まれるというように読める。

いずれにしても、アガンベンの『スタンツェ』の話にも重なるしその後追いになってしまうけれど、知性と身体を結ぶ「コプラ」の系譜を少し追い直してみたい気にもなってきた。

投稿者 Masaki : 23:21