2006年09月18日

ローマ法王の物議

世間的には「失言」問題などと言われていたローマ法王の物議。けれどもこれ、失言というようなものではない。法王は遺憾の意を表したようだけれど、イスラムの過激な人々を中心に騒ぎは収まりそうにないという。うーん、でもこれはどう見てもイスラム側の過剰反応という面が強い。問題の演説は、レーゲンスブルク大学での学者たちを前にした講演のもの(12日)。全文がヴァチカンのサイトに英独伊で掲載されている。さすがにベネディクト16世ことラッツィンガーはもとからの学究肌だけあって、この演説は、理性と宗教という古くからの問題を再考しようというのが趣旨だ。理性のまさしく故郷であるギリシアと原始キリスト教との密接な関わりから説き起こし、「脱ヘレニズム化」(enthellenisierung)というキーワードでもって、理性に対立するようになる宗教の歴史を振り返り(中世後期の主意主義、近世の宗教改革、神学をも席巻した近代における科学偏重主義、現代の多文化主義)、それらへの反省として、新しい形での信仰と理性の出会いを模索しようという、メッセージというか論考になっている。いかにも大学での講演という感じで、問題の設定はきわめて学問的なものだあり、大学の役割にも言及している。

問題の「ムハンマドのもたらしたもの云々」という下りは、最初の導入部分で言及されているだけで、理性は宗教にとっても必要なものだということを述べるための枕として、14世紀のビザンツの皇帝(マヌエル2世パラエオロゴス)とペルシアの学僧との会話が出てくるという次第。しかもそのパッセージ、トルコ軍によるコンスタンティノポリスの攻囲という当時の状況を考えれば、皇帝が過激な言動に出ることも当然のように見える(Er sagt: „Zeig mir doch, was Mohammed Neues gebracht hat, und da wirst du nur Schlechtes und Inhumanes finden wie dies, daß er vorgeschrieben hat, den Glauben, den er predigte, durch das Schwert zu verbreiten“. Der Kaiser begründet, nachdem er so zugeschlagen hat, dann eingehend, warum Glaubensverbreitung durch Gewalt widersinnig ist. Sie steht im Widerspruch zum Wesen Gottes und zum Wesen der Seele. )。この引用でもって、イスラムへの侮辱というのはちょっと過剰反応と思えるのだけど、それにしてもそうした過剰反応が拡がってしまうというところに、何かとてつもない危うさがあるのも事実だ。公人でありローマ教会の第一人者である法王の言動だからという部分ももちろんあるだろうけれど(レベルは違うが小泉の靖国訪問のように)、それにしても本筋ではないところで騒いでしまうのは、やはりDie Weltの記事がいうようなヒステリックな反応にしか見えない。理性と信仰との対話を促すテキストが、非理性的な反応に直面するという逆説は、何かの兆候だろうか?イスラム世界は不可触の存在(語の多様な意味での)になろうとしているとでもいうのか?

それにしてもこの法王の講演はそれ自体として興味深い。理性と信仰の問題は、このテキストがわずかに触れているように、長い歴史に彩られているものだからだ(ドゥンス・スコトゥス、宗教改革、近代の科学偏重などなど)。マヌエル2世のその対話編はクーリー教授(Khoury)の編集によるものだというが、その対話も全体像が知りたいところ(これって、Adel Th. Khouryという宗教学者のことかしら)。

投稿者 Masaki : 20:06

2006年09月14日

スピノザ再び

上野修『スピノザ−−「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版、2006)を読む。100ページほどのブックレットだけれど、スピノザの『神学・政治論』を解読した好著。既存の宗教に対する視座という、いわば側面的なアプローチをしかけている。で、その結果、スピノザがトポスの神という現代の宗教論的を先取りしていることが改めて浮かび上がる、という仕掛け。宗教自体は構築されたものである(スピノザにおいては「敬虔の文法」という、哲学とは対立する形で展開する、とされる)一方で、既存の宗教がもつ構造は普遍的であり、それは政治論の形で取り出すことができる……というのがスピノザの議論の大筋なのだ、というわけ。うーん、『神学・政治論』はずいぶん昔に眼を通したきりだけれど、そういう展開だったっけか。また改めて読み直してみることにしよう。「敬虔の文法」が、敬虔を培うため物語・言語の操作という形で成立するという意味で、自然に立脚する概念を扱う哲学とは全く異なるというあたり、スピノザが中世以来の「理性vs信仰」の対立を独自な形で処理していることが示唆されているわけだけれど、このあたりももう少し詳しく見たいところ。

ちょうどオランダはアムステルダムのWebカム。

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投稿者 Masaki : 00:42

2006年09月05日

キリスト教は無神論的?

ジャン=リュック・ナンシーの『デクロジオン(柵の取り外し)』("Déclosion", Galilée, 2005)にざっと眼を通す。これ、副題に「キリスト教の脱構築1」とあるように、ナンシーの宗教論をめぐる講演や論考を集めたもの。聞くところによれば、邦訳も刊行準備中だとか。

神が世界の原理に還元されるという意味で、一神教というものはもとより無神論的であるというのが出発点となるテーゼ。これは昨今の宗教学で言う、トポスとしての神、みたいな話に通じるものがある。神が原理に還元されるという動きも、その裏側に神と原理を分離しようという動きがあって、一枚岩ではない。一枚岩に見えるものを解体していこうとするところが、脱構築的の本領ということになるのかしら。そしてまた、一神教の中でも特異な立場にあるキリスト教の場合、「それ自体が脱構築、自己脱構築である」(p.55)という議論へと至る。そもそもキリストによって、神そのものは後退を余儀なくされたわけだけれども、そうした動きは、もとより一神教に胚胎しているのではないか、というわけだ。キリスト教史、ひいては西欧の歴史は、そうしたものの継起的な発現、組み替えの過程にほかならない……うーん、爽快なまでの達観ではある。

一方で、自己の脱構築を進めるのがキリスト教本来の動きであるのなら、その到達点としての現代において、信仰(croyance:不在のものへの指向)ではない信心(foi:「信」などと訳されるが、要するに執着の構えのこと)は、果たして純粋な信心、つまり意味そのものへの執着、執着の身振りへの執着として現れるだけなのか、という問題は残る。信心はやはりどこかで信仰へと「横滑り」せざるをえないのではないか、対象を求めるのではないか、という問いだが……一歩間違うと、それは単なる軽信に陥ってしまわないのかしら、などと考えてしまうのだけれど……。

投稿者 Masaki : 22:00

2006年08月16日

「ユダヤ人」の構造

お盆休み(というか休んではいないのだけれど)中、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、2006)を読んだ。ユダヤ人のユダヤ性というのは本当によくわからないのだけれど、同書もその定義の曖昧さから話が始まっている。けれどもそこで著者は、基本的なスタンスとして、ユダヤ人の定義に絡む問題をめぐっていくのではなく、「ユダヤ人」という概念を手にしたことによって、世界は何を手にしたか、という問題機制へと踏み込んでいく。すでにして大いに期待させる踏み込みだ。前半では日本を例に取り、日猶同祖論やその後の陰謀史観などがともに国民国家の整備・近代化の支えをもたらしたことが論じられ、後半ではより広いスパンから、ヨーロッパ(とくにフランス)がユダヤ人概念から何を得たのかという話がパラレルな形で展開する。一種の合わせ鏡の理屈により、ユダヤと反ユダヤが結びつく形で、「『世界』とか『歴史』とか呼んでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものなのではないか」(p.199)と著者は言う。うーん、これはそのまま宗教論の方へと接合・拡張していきそうな感じ。ヨーロッパのユダヤ的な根っこというのは、捻れて隠され疎まれている(忘恩だ)だけにいっそう複雑……。

投稿者 Masaki : 21:43

2006年07月24日

イエスの時間論

アガンベンのパウロ論などを宗教学者たちがどう受け止めているのか、その一端を見たくて、最近出た大貫隆『イエスの時』(岩波書店)に眼を通した。ユダヤ教においてモーセよりもアブラハムの契約が重要である点や、イエスがそのアブラハムなどを中心に、著者のいうところの「イメージネットワーク」を作り上げていたという議論、それが総合的な時間論として転回するといった話など、いろいろと刺激的な内容だ。パウロもまた、アブラハムの事例によってモーセ律法を相対化しているのだという。

アガンベンについては、いくつかの文献学的な問題を指摘しつつ、おおむねその内容(『残りの時』)を肯定している。モーセ律法に対する例外状態としてのイエスの死などは、上のアブラハム伝承へのパウロの視座と重なり合うというわけだ。さらに、「イメージネットワーク」という考え方が、アガンベンの論じるベンヤミンの「星座的布置」という話に重ね合わされるという点も興味深い。アガンベンはこれを、パウロにおける予型論に重ね合わせるわけだけれど、著者はイエス的なものにすら重ねられると論じている。うーん、面白い。日本でのベンヤミン研究がユダヤ神学的発言を認識論に回収して非神学化しすぎているという著者の苦言(?)もあって、これはベンヤミンに限った話じゃないなあと思ったり。いずれにしても、近現代のヨーロッパ思想を読む上でも、ユダヤ神学、キリスト教神学などはある意味必須であることを改めて思う(当たり前なのだけれどね)。

投稿者 Masaki : 13:29

2006年05月16日

公共哲学と一神教

この週末にかけて、『一神教とは何か−−公共哲学からの問い』(大貫隆ほか編、東京大学出版会、2006)にずらずらと眼を通した。キリスト教系の神学、聖書学、宗教学などの隣接領域から集まった研究者らによる論考と、それらをめぐる討論の記録。現代世界にも関係する「信仰」の問題を、根源から考え直そうという趣旨のよう。全体的な流れとして、人格神をいわば「脱構築」して(そういう言い方ではないけれど)場の理論を検討するとか、三位一体論もしくは聖霊の問題を再考するとかといった方向性が浮上しているのが興味深い。論考そのものよりも、それをめぐる討論のページが格段に面白い。思わぬ問題点が指摘されたり、話が意外な方向へと話が転がっていったり。たとえ議論がかみ合っていなくても、この対話的やりとりこそが思索の基本的営為なのだな、ということに改めて納得。うーん、こうした議論の先に拡がっているであろう神学や宗教学の奥深さ。

投稿者 Masaki : 20:13

2006年04月17日

制度としての宗教は……

イースターのこの時期に合わせるかのように、TUTAYA DISCASで予約していたスコセッシの映画『最後の誘惑』(88年)が届いた。このタイミング(笑)。ずっと未見だったのだけれど、確かに最後の30分くらいの展開はとてもスキャンダラスなもの。公開当時にフランスあたりのカトリック右派団体が騒いだというのも頷ける感じ……。人間的にキリストを描く、というのは西欧文化圏ではやはり様々な制約があるのだろう。たとえば福音書の「奇跡」は奇跡として描かざるをえない、ということなどなど。そういう意味では、ルイス・ブニュエルの『銀河』なんかのほうが、よほど批判力としてはラディカルで秀逸だった気がする。その皮肉に満ちた表現がとても鮮烈だったっけ(細部はかなり忘れているけれどね)。

『最後の誘惑』ではユダは裏切り者ではないというスタンスで話が進む。最近、ユダによる福音書というパピルス文書が確認されたという話が伝えられたけれど(ナショナル・ジオグラフィック)、これなどはむしろ、『ダ・ヴィンチ・コード』の映画公開に合わせたプロモーションのようにも見える。なにせ、人に「ヴァチカンを揺るがすかも」なんて思い込ませようとしている感じがちょっと見え見えなので。けれども、「隠蔽する権力」というのはしょせんフィクションの舞台装置でしかないわけで(ヴァチカンはペンタゴンにならんで、そういう舞台に取り上げられやすい)。実際のローマ教会は、何世紀にもわたり正典を核としてがっちり構築されているのだから、それ以外のいかなる「外典」がどれほど発見されようと、その制度的な根底は揺るぎようがないんじゃないかしら。

安易な舞台装置に回収されずに、西欧をマクロ的にもミクロ的にも織りなしている「キリスト教的なもの」をちゃんと認識することの方がはるかに重要だ。正典・外典の分離・排除を核とする「制度」についても、考察を深めたいもの。で、そんなことを考えつつ、今日は来日中のジャン=リュック・ナンシーの公演を聞きに。「無神論と一神教」という題目に惹かれて行ってみた(内容は当初予定のもと変わったのだというが)。ナンシーの最近の仕事は、宗教の脱構築というのが一つの軸になっているそうだけれど、そういう作業は言葉の上ではともかく、そう簡単にはいかないはずだ。今回の講演では、神を体制の中心に据えないことのを「無神論」とした上で、古代世界はその意味で無神論だったし、キリスト教も聖・俗での権力を分割したときから無神論を抱え込むことになったとし、そうした西欧の歴史的な核をなしてきた無神論を肯定的に考え直す以外に、グローバル化時代の新しい方向性は打ち出せない、みたいな話が展開した。うーん、方向性として異存はないが、今むしろ必要なのはその先のとっかかりだ。その意味では、Q&Aで出た、スピノザを刷新して援用する、みたいな話の方が重要になってくる気がするのだけれど。

投稿者 Masaki : 23:44

2006年04月10日

「信」の問題

昨日テレビで放送された静岡県舞台芸術センター(SPAC)による公演『酒神ディオニュソス』(エウリピデス原作)。鈴木忠志演出のこれ、オウムなどのカルト教団事件や9.11との関連で評価された作品だということだった。確かに能のような演出(音楽も雅楽中心、ただしクライマックス近くではいきなり現代音楽っぽい曲が流れた)はドラマチックに回っている感じがしたけれど、断固としてディオニュソスを受け入れないテーバイのペンテウス王が、僧の魔術ですっかり骨抜きになってしまうあたりの演出に、ちょっと説得力が足りない感じも……(原作は読んだことがないのだが)。これじゃ、それまでの言葉による応酬がまったく吹き飛んでしまうでないの。魔力でどうにでも操れるのなら、王を殺害する必要はないし、そもそも王に受け入れを迫る必要すらなくなるわけだし……そのあたりの拮抗をよく描いていた(ように思われる)だけに、ちょっと残念かも。魔力を無批判的に出した段階で、「信」の暗部へと踏み込むようは批判性は、まったく持ち得なくなってしまうわけで。真に問題になるのは(現代において読み込むべきは)その「魔力」の正体。こういうプロットの演劇を現代に蘇らせるのなら、そこにこそ解釈の妙味があってしかるべき……。能などの動きを入れる作品解釈があるのと同水準で、そうした思想的解釈の演出だって十分ありうると思うのだけれど。

ちょうど、ラウル・ヴァネイジェムの編纂による『何も信じない技法/3人の偽善者の書』(Editions Payot & Rivages, 2002)を読んでいるところ。表題の前半をなす書は、17世紀にジェオフロワ・ヴァレによるものとされ、恐れをベースにした宗教のあり方を、知を抑圧するものとして糾弾している。表題の後半に対応するテキストは2編収録されていて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の推定上の始祖たちが糾弾されている。17世紀、18世紀のもので、それぞれドイツ、オランダ(ロッテルダム)で書かれたものとか。リベルタンの系譜をなすこうした信仰への抗いは、現代的にいえば資本主義批判にも通じるものだ。

投稿者 Masaki : 23:34