「舟と船人の比喩」の再考

またもアラン・ド・リベラ還暦記念論集『実体を補完するもの』の収録論文から。アレクサンドリーヌ・シュニーヴィントの「魂は舟の船人のようなものなのか」という小論。奇妙な変遷を辿ったことでも有名な「舟と船人の比喩」(身体と魂の関係を謳ったものとされる比喩)について、アリストテレスのもとのテキストと、アフロディシアスのアレクサンドロス、プロティノスの注解から要点をまとめている。この比喩は、むしろ「舟と操舵手」という比喩として人口に膾炙しているわけだれど、もとのアリストテレスは操舵手(κυβερνήτης)ではなく船員(πλωτήρ)を使っているといい、また両者を区別する一文が『政治学』にあることから、その語の選択は意図的になされたのだろうと推論する。そこにはしかるべき意味があったというわけだ。ところがアレクサンドロスになると、用語的にはすっかり「操舵手」になってしまい、その上で、その語が一人の操舵手を指すのか、それとも操舵の技術を指すのかを検討し(魂と身体の関係を譬えているわけで、前者ならばプラトン主義的に魂が身体から分離しうると解釈できるし、後者なら内在論と解することができる)、結局は両方とも魂と身体の関係の譬えに使うには不適切として斥ける。誤った語をさらに敷衍して考察しているのはちょっと悲惨だ、みたいな扱い。プロティノスになると、正しく「船員」「操舵手」両方の語の違いを考察し、やはりどちらも魂と身体の関係を表すには不当だとこれまた斥けているのだという。うーん。後世において「船員」が「操舵手」になった大元はアレクサンドロスの用語法のせいだというわけなのだけれど、そのあたりは結構微妙なのでは……?「操舵手」はプラトン『国家』にも見られる(488C)という話もあることだし(論文著者本人が指摘している)、第一、ギリシア語自体が時代によって多少意味のズレを含んでいたりもしないのかしら、などと素朴な疑問も浮かんでくるのだが……。
090103