オバマの演説本が語学書として異例に売れているという。以前の『クーリエ・ジャポン』にも付録に演説DVD(大統領選の勝利宣言のやつ)がついてきたりしたけれど、確かに100歳を超える黒人の高齢者の歩みに託して100年のアメリカを振り返るなど、卑近さと遠大さを織り交ぜる語り方が巧みな感じで印象には残る。でも核心的なメッセージ性という部分では妙に空疎な感じとかしたのだけれど……なんて思っていたら、大修館書店の『月刊言語』3月号 の特集「レトリックの力」に、宮﨑広和「オバマのレトリック」という文章が載っていた。「yes, we can」など、あえて動詞もとっぱらったキャッチーなフレーズでもって、逆にそれを聞く各人が自分のこととして受け入れる素地を作った点を、「オバマの希望は、アメリカへの信仰として表現された個々人ひとりひとりの信仰を通じて、個人的な希望として無数に反復複製されたのである」(p.74)と説明している。しかもこれはかなり意図的・戦略的になされているのだという。上の文章では、そのあたりの戦略を「方法としての希望」と称している。なるほど彼の雄弁を支えているのは、いくらでもパラフレーズできる「空疎」をあえて導入し、聞く側の欲望の備給みたいなものを喚起するということなのか……。
それにしても『月刊言語』のこのレトリック特集、司法通訳の話(長尾ひろみ)とかいろいろ面白い。広島の女児殺害事件の南米出身の犯人が「悪魔が私をそうさせた」と述べたというのは本当は「魔が差す」くらいの意味ではないのか、という話は報道の直後くらいからネットとかでも出ていたように思うけれど、これが南米系のカトリック教徒が悪いことに言うのに使う常套句らしいことを紹介したりしている。また個人的な関心から言うと、レトリックとくれば外せないのはアリストテレスやキケロの弁論術。これについての簡潔なまとめも掲載されている(高田康成)。キケロの『弁論家について』は中世人の読むところではなかったとされているけれど、キケロ的なものの伝統と具体的に何が読まれていたかというのをちゃんとまとめておかないとなあ、と。
このところ、立て続けに昨年後半公開の米国映画の話題作をレンタルDVDで観た。で、どれもがなんだか共和党の前政権に対する反省というか再考というかを表しているようで、そのある種の執拗さに思わず苦笑してしまうほど。まずバットマンの新シリーズ『ダークナイト』(監督:クリストファー・ノーラン)。前シリーズのニコルソンのジョーカーは、ぶっちゃけた話おちゃらけだったけれど、今回のヒース・レジャーのジョーカーは真に鬼気迫るド迫力。それはともかく、作品内容として「正義」についての再考を迫り、しかもそのダークサイドを見据えた末に肯定しようとしているあたりで、なんだかこれ、共和党政権がその戦争的禍根をあえて肯定しようとしているかのような悪夢になっている……のでは?次がナイト・シャマランの『ハプニング』。これはいわばゾンビの出ないゾンビ映画(笑)。「ゾンビが出ない」という部分でまったくの失敗作だと思うけれどね(同じ監督の『サイン』は、ゆらゆら揺れる宇宙人が出てきて、それはそれで脱力したんだっけ(笑))。これもまた「敵がいるはずだけれど、見えてこない」という、米国が一時期共有していた焦燥感みたいなものを表している……のだろうなあ、きっと。そういう意味では、これまた前政権時代への批判という感じではある。極めつけは『告発のとき』(監督:ポール・ハギス)。これはもろイラク戦争がらみ。あまりにストレートすぎるのだけれど、息子の事件を追う元軍警察の親父(トミー・リー・ジョーンズが渋い)による話になっていて、謎解きの面で話に引き込まれる。でも、事件の真相そのものはともかく、背景に描き込まれたイラク問題が痛々しい。それにしても娯楽作でありながらも、社会情勢が色濃く反映しているのが最近の米国のヒット作という印象。最近の経済危機なども、これからの公開作に描き込まれていくのだろうなあ。イーストウッドの最新作『グラン・トリノ 』あたりは、ポーランド移民で元自動車工だった親父(イーストウッド)が主人公なのだそうなので、もしかするとすでにしてそんな感じかもしれない(笑)。主題歌はイーストウッドとその息子(って、『センチメンタル・アドベンチャー』の彼?)が作詞作曲なのだそうで(ref:映画評論の町山智浩氏のブログ )。そういえばちょうどイーストウッドにカンヌの特別賞が贈られた そうで(拍手)。
先の『空虚な参照』に続き、アラン・ド・リベラの『主体の考古学1–主体の誕生』(Alain de Libera, “Archéologie du sujet I — Naissance du sujet”, Vrin, 2007 )を読み始める。すでに2巻目も昨秋刊行されているし、まだ続くようで、近年のド・リベラ哲学の主著ということになるのかしら。古代にはなかった「主体概念」が、中世のたとえばアヴェロエスの「思考するのは知性だ」といった議論を経て、いかにデカルトに着地することになるのかを追うというなかなか壮大な試み。まだやっと1巻の4分1(第一章の途中)まで眼を通したところだけれど、前著よりもとっつきやすいというか、なかなか読ませるものがある。第一章は全体の問題提起だけれど、大きなポイントは「付与的主体」と「内在的主体」という図式的対立とその転換を、どのように整理するかということにあるようだ。これに「呼称の主体」「行為の主体」といった区分が絡んで四つ巴になるらしい。すでにしてアウグスティヌスの立場(人間の魂に「主体」といった概念を適用するのは冒瀆的であるとした)や、トマスの議論(感覚的操作の「原理」としての魂と、操作の「主体」としての身体=魂の複合体)が、近代的意味での主体からほど遠いことが強調されたりもしている。ふむふむ、具体的な展開が実に楽しみ(笑)。
昨秋に老舗のVrinから刊行されていた希仏対訳本でのアフロディシアスのアレクサンドロス『霊魂論』(Alexandre d’Aphrodisem “De l’Âme”, trad. Bergeron et Dufour, Vrin, 2008 )を入手。さっそく読み始める。これは以前希伊対訳本で出ていたMantissa(De anima II)とは別物。アラン・ド・リベラなどが指摘している「唯名論のはるか源流」としてのアレクサンドロス像というのは、たとえばMantissaだけだとよく見えてこない(むろん『Questiones』も参照しないといけないのだけれど)。対するこちらは、冒頭の数ページのところで、すでに「思惟」と実在との区別を想わせる文面とかが出てくる。アレクサンドロスは質料と形相は分離しえないということを強調し、それらを分離するのはあくまでエピノイアとロゴスによってでしかないとし、物体が非物体から生成するなどという議論(これは一つのアポリアだけれど)、あくまでそうしたエピノイアとロゴス上の議論でしかないと斥ける。うん、これはすでにしてなかなかに面白そう。この思惟と実在の区別などに留意しながらしばらく眺めていきたいところ。
Τῶν μὲν ὅλων καὶ τελείων ὑποστάσεων οὐδεμία πρὸς τὸ ἑαυτῆς γέννημα ἐπέστραπται, πᾶσαι δὲ πρὸς τὰ γεννήσαντά εἰσιν ἀνηγμέναι ἄχρι καὶ τοῦ κοσμικοῦ σώματος· τέλειον γὰρ ὄν ἀνῆκται πρὸς τὴν ψυχὴν νοερὰν οὖσαν, κύκλῳ διὰ τοῦτο κινοῦμενον, ἡ δὲ ψυχὴ αὐτοῦ πρὸς τὸν νοῦν, νοῦς δὲ πρὸς τὸ πρῶτον. διήκει τοίνυν ἐπὶ τοῦτο ἀπὸ τοῦ ἐσχάτου ἀρξάμενον καθ῾ ὃ δύναται ἔκαστον· ἡ πρὸς τὸ πρῶτον ἀναγωγὴ προσεχῶς μέντοι ἢ πόρρωθεν. διὸ ταῦτα οὐκ ἐφίεσθαι μόνον τοῦ θεοῦ λέγοιτ῾ ἄν, ἀλλὰ καὶ ἀπολαύειν κατὰ δύναμιν.
全体的で完全な実体は、どれもみずからが生み出したものに向き直ったりはせず、おのれを生み出したものを向くのはすべて作り出されたものであり、それは世界内の物体までそうである。というのも、完全であるものは知的存在である霊魂(世界霊魂?)へと遡及し、それゆえに円運動を描くからである。その霊魂は知性に向き直り、知性は一者に向き直るのだ。かくして、それぞれの可能な範囲で、最後のものから始めてそこにまでいたるのである。一者への遡及は即座に、もしくは遠くからなされる。つまりそれは神を求めるのみならず、可能な限り神の恩恵を享受しもすると言えるだろう。
Ἐν δὲ ταῖς μερισταῖς ὑποστάσει καὶ πρὸς πολλὰ ῥέπειν δυναμέναις ἔνεστι καὶ πρὸς τὰ γεννήματα ἐπιστρέφειν· ὅθεν καὶ ἐν ταύταις ἦν ἡ ἁμαρτία, ἐν ταύταις ἡ λελοιδορημένη ἀπιστία. ταύταις οὖν κακὸν ἡ ὕλη τῷ ἐπιστρέφεσθαι ἐπ῾ αὐτὴν δύνασθαι, δυναμέναις ἐστράφθαι πρὸς τὸ θεῖον. ὥσθ῾ ἡ μὲν τελειότης ὑφίστησι τὰ δεύτερα ἀπὸ τῶν προτέρων τηροῦσα αὐτὰ ἐπεστραμμένα πρὸς τὰ πρῶτα, τὸ δὲ ἀτελές στρέφει καὶ πρὸς τὰ ὕστερα τὰ πρῶτα καὶ φιλεῖν ταῦτα ποιεῖ τὰ πρὸ αὐτῶν ἀποστραφέντα.
分割され、多へと向かって降りていくことのできる実体には、(おのれが)生み出したものへと向かう力も備わっている。ゆえにそれらのものには過ちが宿り、また咎められるべき不信心が宿るのである。かくして、本来は神に向かうことのできるはずのそれらにとって、悪とは質料なのである。それが、そちら(生み出したもの)に向かう力を与えるからである。このように、完全さは先行するものから第二のものをもたらし、それらの一者への遡及を管理する。一方、不完全さは第一のものを後続のものへと向かわせ、それらよりも前に逆を向いたものを好むよう仕向けるのである。
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