「ユリイカ」2月号

これまた滅多に買わなくなってしまった雑誌なのだけれど、『ユリイカ』2月号は久々に購入してみる。特集が「日本語は亡びるのか」で、表紙からして先の水村美苗本(『日本語が亡びるとき』)のパロディになっていたのが大きな購入動機(苦笑)。著名な書き手がいろいろとその本についてのリアクションを寄せているわけだけれど、全体的なトーンは、中程に掲載されている小林エリカの6ページのマンガが集約しているといった感じ。つまり「現地語」で文学するならそれはそれでよいでないの、ということ。水村本を後知恵的に振り返ってみると、導入部分のヴィヴィッドな、様々な言語で書いている人たちへの共感・肯定が、とくに後半の学者的筆致になるとどこか息苦しい「近代文学」擁護になってしまうあたりに、多言語主義・多文化主義の盲点のようなものを感じたりもしたのだけれど……(これはもっとちゃんと考えてみないといけない部分かも)。また、近代文学だけ特権化して教えろ、というのもどうなのか。それよりも、日本語史みたいなものにまとめて、古文(万葉集から芭蕉までひっくるめて古文というのもひどい括りだけれど)から近代までいろいろなテキストを散策できるようにするほうがよいのでは、なんて。

ひとつ面白かったのは、石川義正「ギリシャ語が亡びるとき」。田川健三の『書物としての新約聖書』を引きつつ、聖書が成立した当時のギリシア語が、「普遍語」とも「現地語」ともつかない微妙な位相(普遍語として亡びつつあった?)にあったのではないか、ということを指摘している。これはとても興味深い指摘。ローマ帝国が帝国の東側の支配を維持するために、ギリシア語を用いざるをえなくなり、結果的にギリシア語を第一言語とする人々もかえって増えてくる結果になった、といい(これは引用部分)、さらにマルコ福音書(アラム語話者が第二言語のギリシア語で書いたとされる)などがギリシア語で書かれたのも、エリート層のためではなかったともいう。うん、使用言語の移り変わりは政治的要因などいろいろなものに左右される以上、そう単純ではない、というわけだ。それらをもとに同氏は、水村本の現状分析がある種の抽象性を湛えているのでは、と述べている。うん、そのあたりも改めて考えたいところ。