神話の底流?

少し前に入手してあったマルク・リシール『神々の誕生』(Marc Richir, La Naissance des Dieux, Hachette Littérature, 1998)。年越し本になるかなと思っていたら、とりあえずつらつらと読み流してしまった(苦笑)。ギリシア神話とその延長線上にある哲学・悲劇の伝統を題材に、そこに根源的な権力構造の投影を読み取ろうという趣向(と見た)。とりわけ問題になっているのは、国家・王政の創設神話。リシールの解釈によれば、これは神々の世界からの一種の「縮減」として描き出される。複数が併存するのが普通とされる土着の神話は、ヘシオドスの『神統記』が行ったように、統合・縮減のプロセスを経て単一的な創成神話を形成していく。それは拮抗する土着の神々に対して距離を取るという構図でもある。都市国家の創成神話はいずれも同じ構図を有し、そこでは荒ぶる神々から人間の王への縮減が問題になる。それはさらに正統なる為政者を不当なる圧制者(暴君)から引き離す構図にもなるのだけれど、プラトンが『国家』で論じているように(571c)、その圧制者というのは一種の根源的な獣性・無秩序を表し、いわば正統なる王のダークサイド、非覚醒状態(催眠状態:hypnose)をなしている、とされる。リシールはこれを超越論的催眠状態(hyponose transcendentale)と称し、そこからの離脱、覚醒、「統覚」(aperception)への道行きを探ろうとする。で、そうした超越論的睡眠状態を骨抜きにするのは、たとえばギリシア悲劇の感覚や情感の洗練なのではないか、と……。

なるほどこれは神話学的な分析でもなければ精神分析学的な解釈でもない。創成神話が示す象徴構造の意味論、つまり象徴と、それと不可分な(しかもそれを下支えする)隠れた裏側との緊張状態を浮かび上がらせようという目論みのように見える。つまりは創成神話の英雄と荒ぶる神々の縮減的結びつき、あるいは悪しき圧制者と正統な為政者を分かつ「超越論的催眠状態」……。そういう意味でこれは確かに「現象学」的な読解ではある。とはいえ(リシールの全体像とか知らないのでナンだけれど)、企図としては大胆かつ動的な読み方のように感じられるものの、その文章から受ける印象は緻密かつとても静的なもの。このあたりの落差は何なのかちょっと腑に落ちない読後感も……。うーん、もう少し読み直したりして改めて考えてみることにしよう(苦笑)。