20年以上も前の、個人的にはとても懐かしい本(と言っても、当時はちゃんと読んでなかったりするのだが)を久々に手に取った。アウエハント『鯰絵−−民俗的想像力の世界(普及版)』(せりか書房、1989年)。小松和彦や中沢新一が翻訳を担当していたりする。たぶんこれのもとの版(普及版でないやつ)だと思うのだけれど、学生時代に生協の書籍部に行くたび、なにやらこの本が怪しい光を放っていた(苦笑)ように思われたのが忘れられない。以前に一度中身を見たことがあるはずなのだけれど、改めて見てみるとまったくと言ってよいほど覚えていない……。ま、それはともかく。「鯰絵」は1855年の安政の大地震を受けて大量に作られるようになった版画(浮世絵)の数々で、同書はその表象にテーマ別に切り込み、その背景をなしていた民俗信仰の「宗教的現象」を引っ張り上げようとした力作。原書は1964年だそうで、構造主義人類学のアプローチでもあり、その図式的な切り口など少しばかり古さを感じさせる部分もあるけれど、全体としては今読んでもとても面白い。キーとなるのは「対立的調和」というワード。とくに破壊と豊穣という対立概念が鯰絵全体の表象を貫いているのだとしている。荒ぶる神を鎮め、それに両義的に宿っているプラスの側面を強めて豊穣を祈願するという図式(というか構造)が、各種の個別要素を通じて浮かび上がる。その個別要素もまた、民俗的な信仰の中では様々に入れ替わる。たとえば瓢箪と杓子と石神(音読でシャクジ)と要石(鯰を鎮める石)、あるいはエビス神と猿と河童と瓢箪と鯰などのトリックスターの形象が、伝承や民間信仰の中で相互に入れ替わり、実に豊かな表象体系を作り上げる……。
一方でこうしたアプローチでは、そうした民間信仰が安政期にどれほどの強度を持っていたのかとか、そういう心性史的な側面はわからないのだけれど、それでも著者は地震後の鯰絵の台頭に、「時代の災難と(中略)この時代の増大する社会不安とが、疑いなく聖なる出来事(中略)、地震という危機的出来事においてその極に達した」という心性を見、「宗教的な感情がある役割を演じ始めるのは、まさにこうした状況への反応においてなのである。地震絵は独自のやり方でこれを描き出している」と記している(p.370)。「潜在意識の民俗宗教の諸要素」(同)が、そうした出来事を期に一気に蘇ってきたものだろうというわけだ。同書の著者はそこから一気に共同体的な普遍の相へと駆け上ろうとするのだけれど、個人的にはむしろそうした諸要素のもとに滞留して、それらの交錯する様子を眺めていたい衝動に駆られる。うーん、災害やその他のカタストロフィがもたらす心性と表象は、時代や地域を限定せずに、なにかこう「災禍表象学」とでもいったものに収斂してこないかしら、なんて(笑)。『鯰絵』はそうした漠然とした思いを抱かせてくれるという意味でも、依然怪しい光を放っている一冊かもしれない。