再びデ・シェーヌのスアレスがらみの論文。『フランシスコ・スアレスの哲学』(この本自体は未入手)という論集に収録されている、作用因の問題を扱った一編「スアレスによる近接性・作用因論」(Dennis Des Chene, Suárez on propinquity and the efficient cause, The Philosophy of Francisco Suárez, Ed. Hill & Lagerlund, Oxford University Press, 2012)を読んでみた。もとは2008年にカナダで行われたスアレス・カンファレンスでの発表原稿らしい。で、中身はというと……作用因しか認めなかったデカルトは、基本的にそれは接触する物体同士の作用だとして遠隔的な作用を認めなかった。では同時代のアリストテレス主義はどうだったか。実はそちらにおいても作用因の理論はいろいろな要素が撚り合わされた束をなしていたという。スアレスにおいては、物体同士の間が空いている場合(デカルトもそうだが、真空は認められないので)、その間を埋めるものとして媒質を想定し(粒子論的に原因の連鎖だけを考えるデカルトとは異なるものの)、原則としてやはり接触するものにのみ作用が生じると考えている。つまり作用因による媒質への働きかけが生じ、さらにその媒質が離れた物体に働きかけるというわけで、働きかけそのものはもとの作用体と媒質とで同等だとされる(水中の像のように媒質が影響する場合や、作用因と媒質が部分的に結合して作用する場合などの例外あり)。
先月の村上本に触発されて(笑)このところ、少しずつでもレヴィナスの未読のものを読もうかと思っている。レヴィナスは個人的に、なぜか主著ではないものばかりをつまみ食いしてきた感じがあって(『タルムード四講話』とか『貨幣の哲学』とか)、改めて少し長くこだわってみたいという気がしている。そんなわけで、まずは『われわれのあいだに』(Emmanuel Levinas, Entre nous – Essais sur le penser-à-l’autre, Livre de Poche, Grasset, 1991)。年代順に講演や雑誌発表の論考などを集めた論文集。もちろん邦訳(合田正人ほか訳、法政大学出版局)も出ているが、個人的にはできればレヴィナスは(も?)原典で味わいたいところだ。語彙ひとつとってみても通常とは違う意味合いが込められていると言われるけれど、そうはいってもなにやら普通にも読めてしまい、こちらが受け取る文意がどこからか微妙にずれていく感覚があって、滑走するような心地よさと、宙づりになっているもどかしさを両方感じ取ることができたりして、なんとも複雑な気分になる(決して悪い意味ではないし、そもそもそういうのは嫌いではないのだけれど)。ある種の人がとても「ハマる」らしいというのも頷ける。
錬金術書を扱った論考を二つほど見てみた。一つは『太陽の光輝』についての文献学的な論考(Jörg Völlnagel, Harley MS. 3469: Splendor Solis or Splendour of the Sun – A German Alchemical Manuscript,The Electronic British Library Journal, 2011)。『太陽の光輝』は著名な錬金術書で、細密画を伴ったなかなか豪勢なもので、1530年頃のベルリンの写本がオリジナルだとされているのだとか。論文著者は博論(書籍として刊行されている)でそのベルリンの写本を扱い、そこからいくつかのコピーが作られていることを示したのだそうだ。で、こちらの論考では別のハーレイ写本(ロンドン)を扱っている。『太陽の光輝』の作者はパラケルススの師匠だったといわれるサロモン・トリスモシンだとされているけれど、そもそもこの人物自体が伝説上の人物かもしれないという。論文著者によれば、この書はそれ以前の15世紀の複数の錬金術書を下敷きに一種のパッチワークとして書かれているといい、主なものとして1410年の『立ち昇るアウローラ』(Aurora Consurgens)を挙げている。とりわけ興味深いのは、オリジナルのベルリン写本の細密画について、論文著者はアウグスブルクの画家イエルク・ブロイ(父)が作者である可能性を指摘している点。ブロイの手による蔵書票の絵が、様式として似ているというのだけれど、ちょっとよくわからんような……。あとハンス・ホルバイン(子)の影響も指摘されているけれど、これもよくわからない(どうやら同著者による書籍のほうに詳しいらしい)。さらに当時流布していたほかの絵入りの錬金術書(『神の賜物』『哲学者たちの薔薇園』『聖三位一体の書』)の図像がもとになっているともいい、なにやら著書の予告編を見せられている気分。うーむ、これでは本編が読みたくなってくるではないか(笑)。
もう一つはベルリン州立図書館所蔵の、アラビア語の錬金術語彙集についての考察(Gabriele Ferrario, Understanding the Language of Alchemy: The Medieval Arabic Alchemical Lexicon in Berlin, Staatsbibliothek, Ms Sprenger 1908, Digital Proceedings of the Lawrence J. Schoenberg Symposium on Manuscript Studies in the Digital Age, vol.1)。シュプレンガー写本1908というそれは、語彙集とアラビア語版の『明礬と塩の書』(Liber de aluminibus et salibus)が入っているのだという(この後者はかつてアル・ラーズィーの書とされたものの、今では否定され、12世紀スペインでの編纂とされているのだとか)。で、問題とされるのが錬金術の語彙。いろいろな用語が様々に言い換えられ、しかも文脈の判断も難しいため、判読するのはひどく難儀である、とされる。語彙集はそうした言い換えを集めてはいるというものの、確かになにやらひどく錯綜していることが窺える。『明礬と塩の書』での一例として、何かの操作のための鉛の準備の記述が紹介されているのだけれど、いきなり最後のほうで「ビネガーと鷲を入れれば、最良の結果が得られる」みたいなことが書かれていて、この鷲というのは何かがまるでわからない。語彙集によればそれはどうやら塩化アンモニアらしいということが分かるのだという。けれどもこれは良い例で、実際にどんな成分を用いるのか特定するのが不可能な場合も多いという。言い換えやその組み合わせはほとんど無限。だからこそ、今の時代の研究として、校注版作成のためにデータベースの確立などデジタルメソッドが必要だ、と著者は説く。
今年はちょっと美術史家のダニエル・アラスを著作をいろいろ読んでいこうかと思っている。で、第一弾として『悪魔の肖像』(Daniel Arasse, Le Portrait du Diable, Les éditions arkhê, 2009)を早速見てみた。小著ながらなかなか読ませる。中世末期からルネサンス期にかけての悪魔の表象をわずか70ページで駆け抜けるというもので、2003年に59歳で急逝してしまわなかったなら、たぶんもっと長大な著作の緒論になるはずだったのではないかしら、と思われる。そんなわけで、扱われている絵画の例も少ないながら、全体の見取り図を要所要所を押さえて示そうという意図は逆に鮮烈に伝わってくる感じだ。