オピキヌス・デ・カニストリス

opicinus1寡聞にしてこれまた知らなかったのだけれど、オピキヌス・デ・カニストリス(1296〜1353)というイタリアの聖職者は、かなり異例な著書および線画を残しているのだという。もとより波乱に満ちた人生を送った人物のようだけれど、最も重要なのは40歳前にして病気で生死をさまよい、そのときに神秘体験を得ていること。主要な二つの絵入りの著書(Vaticanus latinus 6435、Palatinus latinus 1993の二手稿)は、その体験の後に描かれ著されているのだとか。一説によるとその絵は精神疾患(統合失調症?)ではないかという話もある。ネットでもいくつか見られるけれど、幾何学的な抽象的図式と人物像とが合わさっていたり、ヨーロッパ一帯の地図が複数の人物像になっていたり(その一例として図を参照。Vat.lat.6435からのもの)、なにやらとても奇異で興味深い(それらのモチーフは様々に反復されている)。

というわけで、こうした絵についての論考を、とりあえず一つ読んでみた。ダニエラ・ズティック「再び見ること:オピキヌス・デ・カニストリスの作品における幾何学、地図製作法、ビジョン」(Danijela Zutic, Seeing again: Geometry, Cartography and Visions in the Work of Opicinus de Canistris, Univ. of British Columbia, 2012)(PDFはこちら)というもの。ちょっと荒削りな感じもする(?)学位論文なのだけれど、個人的な取っ掛かりとしては悪くなさそう(かな?)。基本的には、精神疾患の側面から扱われることの多かったオピキヌスの線画について、より対話的な鑑賞を提唱し、オピキヌスの念頭にあったであろう神学的な理論の視覚化という意図ないし知的運動を取りだそうという試み。ただ、絵そのものの綿密な解読というよりも、ほかの著名な論者などの主張ないし解釈(メアリー・カラザースからドゥルーズまで、いろいろ引用されている)の適用の比重が高い感じがする。そのあたりが荒削りと評した理由だ。けれども、たとえば研究史のまとめなどは有益だと思えるし(オピキヌスが再発見されたのは1930年代で、リチャード・サロモンによる伝記研究が嚆矢。精神疾患の文脈で捉えられるようになったのは、1950年代のエルンスト・クリスの解釈によるのだとか。90年代になってようやく、肯定的な意味合いを見出そうとする研究が出てくるという)、上の地図と人物の重ね合わせについてもよくわかるコメントが添えられていたりもする。それらの絵の一つでは、欧州大陸が男性、北アフリカが女性、地中海が悪魔に重ね合わせられ、さらにそこに「罪の原因」といった言葉が添えられていたりし、これがアダムとエヴァであることが示されているのだという。この論考はPalatinus Latinus 1993を主な考察対象としているけれど、より総合的な図像解釈が期待されるところ。さしあたり同論文が参照している文献なども、いくつか読んでみたい。

潜行せよ、とナベールは言う……

悪についての試論 (叢書・ウニベルシタス)これは個人的に、久々に(ある意味で)心躍らされる一冊。ジャン・ナベール『悪についての試論 (叢書・ウニベルシタス)』(杉村靖彦訳、法政大学出版局)。ナベールは初めて読んだし(というか、同書が初の邦訳なのだそうだ)、そもそも名前も知らなかったのだけれど、なるほどその内省に内省を重ねていく重厚な思考と論述は、ある種のフランスの思想的伝統を感じさせる(原書は1955年刊)。確かに晦渋ではあるものの、読み手にとってはある意味、強壮剤のようなテキストかもしれない。人が抱える「悪」には、道徳的規範への侵犯といったレベルには収まらない、本源的な悪というものがあるのではないか……考察はそこから始まる。なぜそう考えられるかといえば、それはなにがしかの行為や、その他のなんらかの現実に対して、「正当化できない」という感情を抱くことがあるからだ。それはきわめて原初的な感情であり、それを生み出す大元のところには、規範などを超越し、直接的には把持することができない(原初的感情を通してしか透けてみえないような)、その感情に対応する「悪」があるに違いない、と。もしそれがあるとしたら、それが意識においてに捉えられないのは、意識の中の深いところに隠れているからのではないのか。意識の深いところとはどこか。それは、個別の意識が他から分離せざるをえないという本源的な裂け目にほかならないのではないか……。こういう感じで、思弁は深く深く潜っていく。ただ、これもまたフランス的、あるいは大陸的な哲学思考の常で、そうした悪を前にして、人がなしうる術は限りなく小さいものでしかない。悪を覆い隠してしまうような諸力に抗い、その都度、その認識を自覚しようと努めることからしか、そうした分離を乗り越えることはできないだろう、というのだ。

こうした文脈で一性(ここでは神を指しているわけではない)とか純粋意識とか称されるものにも言及されるが、そのあたりには、どこか宗教的・宗教哲学的な残滓も窺える。またカント哲学への批判的な姿勢も随所に見られる。巻末の訳者解説では、この悪の問題についての哲学史的なまとめもあり、そこではライプニッツの神義論がリスボン大地震を契機に失効し、悪の問いが再編成されてカントの「善意志」と「根源悪」に至ることが記されているが、ナベールはさらにその先の、「犯す悪」だけでなく「被る悪」をも考慮しなければならないという時代的な要請の中に位置づけられる。その周辺には、同じように思考不可能な悪や思考からこぼれ落ちる悪を論じたレヴィナスやアーレントがいる……。

全体はこのように壮大な思弁を物語っていくのだけれど、人によってはそうした実定・検証できない空論を弄してどうなるのか、という意見もあるかもしれない。けれども、たとえば「分離・分断」が悪を生じせしめるというあたりの見識ひとつ取ってみても、個人レベルから社会的レベル、災禍の問題から国際関係・戦争にいたるまで、そうした議論が示唆するところは案外大きいのではないか、という気もする。

卑近な例を一つ挙げておこう。認知症の介護の問題だ。個人的には老親の介護を始めてちょうど三年が経過したところなので、とりわけこれは思うところが大きい。記憶を保持できない被介護者は、生活のいろいろな面でそのことを取り繕うために嘘を重ねる。介護する側にはときにそれがなんとも許せない・許しがたいと思うことがある。相手が病気であることを承知しつつも、そうした許しがたさはときになかなか鎮めるのが難しかったりもする。で、こうした感情の根は相当に深いように思われるのだ。もちろんそれで虐待などの反道徳的行為に直結するわけではないけれども、いずれにしてもそうしたダークな感情が渦巻くのは、そこにある種のコミュニケーションがもはや成立しえないという事実があるのも確かだ。それは病気ゆえの絶対的な意志不疎通という事態であり、分断されていることは修復不可能な与件でしかない。被介護者側もまた、その意志不疎通の事態に苦しんでいるのかもしれないが(虚言はその現れなのか?)、その者にはもはやそのこと自体を告げる術すらない。だからこそ、そこに巣くう悪への対処は、その悪をその都度反省的に注視する・見据えることしかないのかもしれない、と言われるならば、それはある種とても大きなリアリティをもって迫ってくる。

イタロスの質料論

聖ルカ修道院のフレスコ画。描かれているのはヨシュアだというが、服装は10から12世紀のビザンツの歩兵隊のもの(wikipediaより)
聖ルカ修道院のフレスコ画。描かれているのはヨシュアだというが、服装は10から12世紀のビザンツの歩兵隊のもの(wikipediaより)
ヨハネス・イタロスの質料論についての論考を読んでみる。ミケーレ・トリツィオ「一一世紀ビザンチウムにて再考された、悪しきものとしての質料をめぐる古代末期の論争−−ヨハネス・イタロスとその問題九二」(Michele Trizio, A Late Antique Debate on Matter-Evil Revisited in 11th-Century Byzantium, John Italos and His Quaestio 92, Fate, Providence and Moral Responsibility in Ancient, Medieval and Early Modern Thought. Studies in Honour of Carlos Steel, Leuven University Press, 2014)という論考。イタロスは一一世紀のビザンツの哲学者で、あのプセロスの後を継いで宮廷の哲学的助言者になった人物。基本的にはキリスト教徒なのだけれど、1082年には異端として糾弾されてしまう。質疑と応答の形式で記された著作が九三編あるというが、まだ本格的なモノグラフは出ていないという。同論考は、その質料観についてテキストに沿ってまとめたもの。イタロスは基本的スタンスとして、質料が生成も消滅もせず、創造主と永遠に共存するものだという古代ギリシアの考え方に批判的なのだという。また、質料を悪しきものとする考え方(イタロスにより誤ってアリストテレスの思想とされている)をも批判しているという。それがアリストテレスに帰されたのは(アリストテレスは「質料は女性的だ」としているのみだった)、どうやらシンプリキオスの注解のせいらしい。一方で、この後者はプロティノスの質料観であり、また前者はその批判者であったプロクロスの考え方でもあったわけで、イタロスはこの矛盾する両者を突き合わせて、古代の質料観がいずれにしても逆接的であることを指摘していくのだとか。なにやらとても「近代的」なアプローチでないの。で、イタロス自身の考え方はどうかというと、これまた逆接的で、質料をめぐる教説の矛盾から「質料などというものは存在しない」という結論を導いているのだという。そちらもなかなかラディカルだ。けれどもそのせいか、イタロスはむしろその欠如(=悪しきもの)としての質料というシンプリキオス的・プロティノス的な質料観に与しているとしているとして(?)、異端として糾弾されることになるらしい。これまたなんとも逆接的な話(イタロスの本来の意図は、古代の哲学的見解を排して、キリスト教の初期教父の教えを尊重しようとするものだった、と論文著者は述べている)。

オートレクールのニコラ:古代の懐疑論との違い

前にも少し触れたけれど、セクストゥス・エンペイリコスの懐疑論の徹底ぶりは、後世のものとはだいぶ趣を異にする。そのことに関連して、オートレクールのニコラの懐疑論についての考察を読んでみる。リチャード・フィッチ「オートレクールのニコラと理性の熟達」(Richard Fitch, Nicholas of Autrecourt and the Mastery of Reason, DT 116, 3, 2013)という論考。基本的に、ニコラの懐疑論が古代のものとどう違っているのかを、ややねじれた形で検証するというもの。ねじれた形というのは、まずそれが、エティエンヌ・ジルソンとハンス・ブルーメンベルクの議論をもとに、中世のキリスト教の文脈において「懐疑論」は可能だったかどうかを考察し、ついでニコラの立場をその議論との関連で照らす、というものだから。なにやらくせ玉のような議論ではあるけれど、哲学的な懐疑論が神学の立場と共存するかどうかというもっと大きな問題を見据えているために、こういう迂回的な議論構成になっているのだろう。ジルソンは、ハーヴァードでの講義にもとづく著作『哲学的経験の統一性』(1937年)で、歴史的回帰として次のことが繰り返されているさまを構造的に説いているという。すなわち、教義はその刷新において懐疑主義による諸原理の問い直しへと向かい、そこから神秘主義・道徳主義が出てくる、というわけだ、ニコラはまさにその原理の問い直しの文脈に位置づけられる。一方のブルーメンベルクは、ピュロン主義的な懐疑論がキリスト教教義によって予め否定されているがゆえに、ニコラは非形而上学的な原子論を採択する以外に選択肢がなかったのだと説く。神学的決定が懐疑主義を阻むというのだが、これに対して論文著者は、そうではないと考えているようだ。理性の熟達が、神からの決定が下ってくるような垂直軸から、人々の間で知識が共有されるような水平軸へと移りゆくとき、神的・絶対的な力と無神論との狭間で、どちらの極端にもいたらない一種の緊張状態が現出する可能性(昔風にいえば、両方の軸を斜めに横断するような状態)を思い描いているのだ。その意味において、信仰と(哲学的な)懐疑的論理は排外的ではなく、ニコラもそうしたスタンスを取ろうと思えば取ることも可能だったろう、と……。

実際のニコラは、あからさまに懐疑論を標榜するようなスタンスは取っていない(と論文著者は見ている)。たしかにベルナール宛の書簡では古代の懐疑主義のような議論で相手を批判してはいるものの、みずからを懐疑論者とは見なしているわけではなく、たとえば無矛盾の原理など(古代の懐疑論ならば自己批判の対象にするようなもの)は進んで優位に置いているという。また、部分的には古代の懐疑派の「判断停止」のような姿勢を取る場面も見られるというが、これもまた理性と論理の限定的理解からより深い理解への運動として捉えられるのではないかとし、論文著者はそれをニコラの思索のスタイルに関連づけている。丁々発止のスコラ的論究(レクティオやクエスティオにおける)を捨て、いわば部屋に引きこもって微細な推論の動きを綿密に検証するというその新たなスタイルは、たとえば印刷術のような技術的なものが誘発した結果ではない。論文著者はむしろそこに、「思想が真に社会的なものになるには、思索の行為は非社会的でなければならない」という仮説を見出している。