というわけで、こうした絵についての論考を、とりあえず一つ読んでみた。ダニエラ・ズティック「再び見ること:オピキヌス・デ・カニストリスの作品における幾何学、地図製作法、ビジョン」(Danijela Zutic, Seeing again: Geometry, Cartography and Visions in the Work of Opicinus de Canistris, Univ. of British Columbia, 2012)(PDFはこちら)というもの。ちょっと荒削りな感じもする(?)学位論文なのだけれど、個人的な取っ掛かりとしては悪くなさそう(かな?)。基本的には、精神疾患の側面から扱われることの多かったオピキヌスの線画について、より対話的な鑑賞を提唱し、オピキヌスの念頭にあったであろう神学的な理論の視覚化という意図ないし知的運動を取りだそうという試み。ただ、絵そのものの綿密な解読というよりも、ほかの著名な論者などの主張ないし解釈(メアリー・カラザースからドゥルーズまで、いろいろ引用されている)の適用の比重が高い感じがする。そのあたりが荒削りと評した理由だ。けれども、たとえば研究史のまとめなどは有益だと思えるし(オピキヌスが再発見されたのは1930年代で、リチャード・サロモンによる伝記研究が嚆矢。精神疾患の文脈で捉えられるようになったのは、1950年代のエルンスト・クリスの解釈によるのだとか。90年代になってようやく、肯定的な意味合いを見出そうとする研究が出てくるという)、上の地図と人物の重ね合わせについてもよくわかるコメントが添えられていたりもする。それらの絵の一つでは、欧州大陸が男性、北アフリカが女性、地中海が悪魔に重ね合わせられ、さらにそこに「罪の原因」といった言葉が添えられていたりし、これがアダムとエヴァであることが示されているのだという。この論考はPalatinus Latinus 1993を主な考察対象としているけれど、より総合的な図像解釈が期待されるところ。さしあたり同論文が参照している文献なども、いくつか読んでみたい。
ヨハネス・イタロスの質料論についての論考を読んでみる。ミケーレ・トリツィオ「一一世紀ビザンチウムにて再考された、悪しきものとしての質料をめぐる古代末期の論争−−ヨハネス・イタロスとその問題九二」(Michele Trizio, A Late Antique Debate on Matter-Evil Revisited in 11th-Century Byzantium, John Italos and His Quaestio 92, Fate, Providence and Moral Responsibility in Ancient, Medieval and Early Modern Thought. Studies in Honour of Carlos Steel, Leuven University Press, 2014)という論考。イタロスは一一世紀のビザンツの哲学者で、あのプセロスの後を継いで宮廷の哲学的助言者になった人物。基本的にはキリスト教徒なのだけれど、1082年には異端として糾弾されてしまう。質疑と応答の形式で記された著作が九三編あるというが、まだ本格的なモノグラフは出ていないという。同論考は、その質料観についてテキストに沿ってまとめたもの。イタロスは基本的スタンスとして、質料が生成も消滅もせず、創造主と永遠に共存するものだという古代ギリシアの考え方に批判的なのだという。また、質料を悪しきものとする考え方(イタロスにより誤ってアリストテレスの思想とされている)をも批判しているという。それがアリストテレスに帰されたのは(アリストテレスは「質料は女性的だ」としているのみだった)、どうやらシンプリキオスの注解のせいらしい。一方で、この後者はプロティノスの質料観であり、また前者はその批判者であったプロクロスの考え方でもあったわけで、イタロスはこの矛盾する両者を突き合わせて、古代の質料観がいずれにしても逆接的であることを指摘していくのだとか。なにやらとても「近代的」なアプローチでないの。で、イタロス自身の考え方はどうかというと、これまた逆接的で、質料をめぐる教説の矛盾から「質料などというものは存在しない」という結論を導いているのだという。そちらもなかなかラディカルだ。けれどもそのせいか、イタロスはむしろその欠如(=悪しきもの)としての質料というシンプリキオス的・プロティノス的な質料観に与しているとしているとして(?)、異端として糾弾されることになるらしい。これまたなんとも逆接的な話(イタロスの本来の意図は、古代の哲学的見解を排して、キリスト教の初期教父の教えを尊重しようとするものだった、と論文著者は述べている)。
前にも少し触れたけれど、セクストゥス・エンペイリコスの懐疑論の徹底ぶりは、後世のものとはだいぶ趣を異にする。そのことに関連して、オートレクールのニコラの懐疑論についての考察を読んでみる。リチャード・フィッチ「オートレクールのニコラと理性の熟達」(Richard Fitch, Nicholas of Autrecourt and the Mastery of Reason, DT 116, 3, 2013)という論考。基本的に、ニコラの懐疑論が古代のものとどう違っているのかを、ややねじれた形で検証するというもの。ねじれた形というのは、まずそれが、エティエンヌ・ジルソンとハンス・ブルーメンベルクの議論をもとに、中世のキリスト教の文脈において「懐疑論」は可能だったかどうかを考察し、ついでニコラの立場をその議論との関連で照らす、というものだから。なにやらくせ玉のような議論ではあるけれど、哲学的な懐疑論が神学の立場と共存するかどうかというもっと大きな問題を見据えているために、こういう迂回的な議論構成になっているのだろう。ジルソンは、ハーヴァードでの講義にもとづく著作『哲学的経験の統一性』(1937年)で、歴史的回帰として次のことが繰り返されているさまを構造的に説いているという。すなわち、教義はその刷新において懐疑主義による諸原理の問い直しへと向かい、そこから神秘主義・道徳主義が出てくる、というわけだ、ニコラはまさにその原理の問い直しの文脈に位置づけられる。一方のブルーメンベルクは、ピュロン主義的な懐疑論がキリスト教教義によって予め否定されているがゆえに、ニコラは非形而上学的な原子論を採択する以外に選択肢がなかったのだと説く。神学的決定が懐疑主義を阻むというのだが、これに対して論文著者は、そうではないと考えているようだ。理性の熟達が、神からの決定が下ってくるような垂直軸から、人々の間で知識が共有されるような水平軸へと移りゆくとき、神的・絶対的な力と無神論との狭間で、どちらの極端にもいたらない一種の緊張状態が現出する可能性(昔風にいえば、両方の軸を斜めに横断するような状態)を思い描いているのだ。その意味において、信仰と(哲学的な)懐疑的論理は排外的ではなく、ニコラもそうしたスタンスを取ろうと思えば取ることも可能だったろう、と……。