ヘンリクス「vs」エギディウス

少し前に関連論文を先に見たのだけれど、その大もととなったらしい論集『開示されたアリストテレス主義』(Cordonier, Suarez-Nani, L’Aristotélisme exposé : aspects du débat philosophique entre Henri de Gand et Gilles de Rome, Academic Press, 2014)を入手し、さっそく読み始めてみた。ゲントのヘンリクスとエギディウス・ロマヌスは、どこか間接的ながらも相手がわかるような形で、様々な問題について応酬し合っているのだといい、その具体的な問題を個別に取り上げた論考で構成された一冊だ。まださわりの部分しか目を通していないのだけれど、とりあえず簡単にメモをまとめておこう。まず、編者の一人ヴァレリー・コルドニエによる序文が、両者の対立する諸問題を整理していて有益だ。基本的な姿勢として、エギディウスは逐語解のような形でアリストテレスを「説明」しようとするのに対して、ヘンリクスはむしろいっそう「体系化」志向なのだという。で、両者の見解が異なる主な問題として、(1) 第一原理そのものの理解可能性、(2) 天使の個別化の様態、(3) 認識の様態(スペキエスの果たす役割など)、(4) 形相の複数性、などが挙げられている。

序文に続く最初のカトリーヌ・ケーニヒ=プラロングの論考は上の(1)および(3)、つまり認識論がらみの問題を扱っている。これについては後でメルマガで詳しく取り上げるかもしれないので(確約はしないが)、保留としておく。二つめのゴードン・ウィルソンの論考は(4)の形相の複数性についてのもの。そこでは、ヘンリクスとエギディウスがそれぞれの思想を深める上で、互いに相手の存在が重要だったということに力点が置かれている。形相の複数性の議論には、1. キリストが復活するまでの間の肉体の問題、2. 実体変化の教義の問題、さらには3. 魂の三態(植物的・動物的・理性的魂)をめぐる捉え方などが絡んでくる。まずこの3ついてヘンリクスは、最終的に外部から注入される理性的魂を受け入れられるよう、自然が質料を準備するという説を取る。これは知性における照明説とパラレルだ。しかしながら、植物的魂、動物的魂の起源については「疑いが残る」として明言を避けているという。二形論(人間は、質料由来の植物的・動物的魂と、超自然の理性的魂とによって成るとする複数形相論)に接近しながら、ぎりぎりのところで単一形相論に踏みとどまっている感じか。エギディウスのほうは、ヘンリクスよりも二形論をいっそう意識した議論を示すという。うん、以前見た胚胎についての議論がまさにそういう感じだった。質料がらみで別の形相を認めるかどうかが両者の分かれ目か。2の実体変化(さらには1のキリストの死後の肉体も?)についても、エギディウスがその場合の血や肉を「数量的に延長された部分以外の部分をもつ」質料、と規定するが、ヘンリクスは、なにがしかの実体的形相によって形を与えられていない質料が血や肉であるとは言えないとして、これに否定的だという。

残りの論考についても、興味深い点があれば順次メモっていこう。

久々に「雑感」

『シャルリー・エブド』襲撃事件後のフランスの追悼デモ。多くの人が「私はシャルリー」との、一見控えめともとれるスローガンを掲げている光景は、なにやら西欧の現代社会の「参照軸」または「シンボリズム」の無さ、弱さの一端を如実に表しているようにも見えてしまう。もちろんそのスローガンは、犠牲になった人々への共感と、その人々が抱いていたであろう表現の自由などの価値を擁護するという意味合いをもつのだろう。けれども、ジラールではないけれど、軸線をもたらすはずの聖なる座に、あまりに性急・露骨に犠牲者が捧げられているかのような印象で、どこか落ち着かない。そのままでは座に定着することもないだろうし、足早にその場を去ってしまうのではないか、などと考えていたら、『シャルリー・エブド』は次号で通常の一〇〇倍の部数を刷る予定だと言い、みずからさっそくその座を去ることを決めたらしい(苦笑)。彼らもまた所詮は資本主義の申し子なのであり、必ずしも別様の価値を体現するものではないわけで、聖なる座はやはり空虚なまま流転していくしか、あるいはまた別の犠牲者が捧げられるしかない、ということなのか。……というか、「売る」という文脈から限りなく離れた表現の自由の擁護は、果たしてまだなんらかの意味を持ちうるだろうか?

現代思想 2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015 -思弁的実在論と新しい唯物論-青土社の『現代思想 2015年1月号』(特集=現代思想の新展開2015 -思弁的実在論と新しい唯物論-)を眺めてみた。メイヤスーやハーマンの新しい動向などが紹介されていて参考になる。メイヤスーは極限にまで押し進めた偶然性のカオスの世界観から、神が潜在としてありうる世界みたいな考察へとすでに進んでいるようで、一種の新しい神学(神論?)に向かっているというし、ハーマンは対象同士が「感覚的」(一般的な感覚の意味ではない)相で繋がるという構図をさらに進めて、感受学(この用語も通常の意味ではない)としての美学へと向かっているのだとか。個人的には、彼らの基本的な立ち位置以上に、そのディスクールの繰り出し方に興味を覚える。読者に「柄」「取っ手」「掴みどころ」のようなものを差し出しながら、それでもなお全体的にアクロバティックな議論を展開しようとしているあたりがその特徴ではないかと思うのだけれど(それはとりもなおさず、時代的な流れというか、古典化・保守化の傾向を感じさせる現代思想系の最近の研究にも一脈通じるものがあるようにも見えるが)、それぞれが新たに向かう先に及んでも、そうした「柄」の部分、「掴みどころ」の部分を保持できるのかどうかが気になるところだ。

同誌で個人的に最も興味深かったのは、アラン・バディウのプラトン回帰について触れている近藤和敬「存在論をおりること、あるいは転倒したプラトニズムの過程的イデア論」。国民国家がうまく機能しなくなったグローバル化時代の、いわば新たな参照軸を探す試みにおいて、バディウに倣ったプラトン的思考様式の可能性を探ろうというもの。プラトン的なものの形を変えた復権という意味では、それ自体はなかなか面白そうな試みに思えるのだが、一方で、上で触れた参照軸・シンボリズムの弱さではないけれど、バディウにしても(あるいは同論考でイデア論を見据えていたとされるドゥルーズにしても)、現象の圧倒的な広がりと強度に対して、提出される参照項はなにやら今となってはあまりに弱々しい印象を受けるのだが……?

年越し数学史

非ヨーロッパ起源の数学―もう一つの数学史 (ブルーバックス (B-1120))みたび年越し本。まだ読みかけなのだけれど、ジョージ・G・ジョーゼフ『非ヨーロッパ起源の数学―もう一つの数学史 (ブルーバックス (B-1120))』(垣田髙夫、大町比佐栄訳、講談社)がとても面白い。タイトル通り、エジプト、バビロニア、古代中国、古代インド、アラビアなど非ヨーロッパ圏の数学の発展を、文献に残る具体的な数学問題を紹介しながら追っていくというもの。興味深いのは、そうした数学問題について、その文献に残る解法を近代的な解法と対照させているところ。たとえば、「ある数に1/4を加えると15になる。そのある数を求めよ」という問題は、現代の代数なら一次方程式でx + 1/4x = 15を解けばよいだけなのだけれど(答えは12)、エジプトの代数はこれを次のように解くという。ある数を仮に4だとすると、15となるべきところが5となる。5は3倍すれば15になる。よって仮定した4に3をかければ正しい答えになる……。これは記号式代数以前には一般的だった一次方程式の解き方だといい、ヨーロッパでもかつては用いられていたものなのだとか(p.115)。こういう「発見」がいろいろ詰まっていて飽きない。原著は1990年刊で、訳書も1996年刊。残念ながら出版社側の在庫切れらしいのだけれど(古書で入手可能)、ぜひ復刊してほしいところ。

数学の歴史 (放送大学教材)同じように例題などを交えながら、古代から近世までのヨーロッパの数学史ならびに和算をカバーしているものに、三浦伸夫『数学の歴史 (放送大学教材)』(NHK出版、2013)がある。こちらも通史的に全体を俯瞰できるところがとても有用だ。たとえばカルダーノ(16世紀)による三次方程式の解法。x^3 + 6x = 20を例にその解法が示されている。まずは6の三分の一である2を立方して8。定数部分(20)の半分を二乗すると100。これと8を足して108。平方すれば√108、これを2度作り、定数の半分である10を一方に加え、もう一方から引く。√108 + 10(二項和)と√108 – 10(二項差)。これらの立方根を取り、二項和の立方から二項差の立方を引く、と。

対象同士の関係世界

L'objet quadrupleこれも年越し本だけれど、グレアム・ハーマンの『四項構成の対象』(The Quadruple Object)を仏訳で読んでみた(Graham HarmanL’objet quadruple, trad. Olivier Dubouclez, PUF, 2010)。フランスのメイヤスーなどとともに名前の挙がることの多いハーマンは、これが仏訳としては最初の著作で、しかもこの著作に関しては仏語版が先に出ていたらしい。「対象」を再定義することによって、まったく新しい形而上学を打ち立てようというのが基本的な主旨。対象の再定義については、主にフッサールとハイデガーの批判・再検討が踏み台となっている。このあたりはとても興味深い分析だ。主筋だけ取り出すと、まずフッサールの内観的アプローチは、対象の感覚的な側面(感覚的対象)を取り上げていると評価されるものの、その問題点は、外部に実在するであろう対象にほとんど言及しない点にあるとされる。一方のハイデガーについては、道具的存在として対象を把握するその分析が取り上げられ、その観点が対象一般へとある意味拡張される。道具として対象が捉えられるとき、その対象そのものは意識に登らず不明瞭な領域へと後退してしまうわけなのだが、そのアクセス不可の領域にこそハーマンは注意を向け、そこに対象の実在性(実在的対象)を見据える。こうして取り出された「感覚的対象」と「実在的対象」は、人間vs外部世界という従来の枠組みを脱するものとして、ただちに一般化される。あらゆる対象は、他の対象(人間や動物を含むが、それにだけとどまるのではない)にとって、感覚的対象と実在的対象をなすというのだ。感覚的という形容詞もすでにして人間(ないし動物)の感覚の意味ではなく、別の対象との相互作用が可能な表層部分といったような意味合いらしい。いずれにしてもここに見られるのは一種の汎対象論。対象が他の対象となんらかの関係性を織りなすという世界を描こうとしている。これをハーマンは「思弁的形而上学」と称する。

こうした構築の意志を強く感じさせる議論展開の後、話はやや図式主義的なものに転じていく(哲学とは単純化でもある、となにやら開き直りのような放言もある(笑))。対象が併せ持つ「質」にも感覚的な質、実在的な質の区別を設けることで、対立軸の軸線を複数化し、四項(実在的対象、感覚的対象、実在的質、感覚的質)から成る図式が成立する(著者自身もさらっと書いているが、なにやら昔のグレマスの記号論を彷彿とさせるものもある)。で、著者はそれぞれの項同士、あるいは項がおのれ自身と切り結ぶ関係性について、やや踏み込んだ形で記述していく。「ハンマー」のような具体的な例も挙げられるのだが、一見「とりつきやすそう」に見えて、このあたりの記述は正確に理解しようとするにはちょっと手強い感じもある。それらの関係性にハーマンは独特な語彙をあてがっていて、たとえば、実在的対象が感覚的な質と切り結ぶ関係は「allure(「振る舞い」、あるいは英語的に「魅惑」?)」と称されたりする。そうした語彙が妙に人間くさい(ないし生き物くさい)ためか(苦笑)、なかなか対象同士の関係性という感じですんなり読みきれないもどかしさを感じる。さらにまた、そうした図式でのまとめがこの先どう発展しうるのか、どういった実をもたらすのかといった展望もいまひとつ見えないなど、いくつか釈然としないところも。とはいうものの、まったく新たな形而上学を構築しようという意志、あるいはその潔さには少なからぬ感銘を受ける。ちなみに英語でObject Oriented Onthologyとされているもの(これを「オブジェクト指向存在論」と訳してしまうと、なにやらあまりにプログラミングっぽい感じになってしまうのだが……)は、この仏訳では「対象中心存在論」みたいに訳されている。

英語での同一著作はこちら。

The Quadruple Object
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偽デモクリトスと「硫黄水」

Scritti alchemici e magici. Ediz. critica del testo greco明けて2015年。昨年は個人的に懐疑論や数学史にはまった感じだったけど、今年もそのあたりを含めて思想史世界を巡って行けたらと思う。とはいえ、年明けの一つめはそのどちらにも関係しない「錬金術もの」で(笑)。年越し本の一つなのだけれど、先月から眺めているのが、マッテオ・マルテッリの校注・訳になる『偽デモクリトス:錬金術書およびシュネシオスの注解』(Matteo Martelli, Pseudo-Democrito, Scritti alchemici, Con il commentario di Sinesio, Archè, 2011)。希語部分は一通り目を通し、冒頭の解説序文を見ているところなのだけれど、これはもっぱら文献学的な議論。けれどもそれはそれで面白く、たとえば執筆年代の特定の話では、本文中の錬金術レシピに出てくるκλαυδιανόν(ある種の銅の合板を言うらしい)という素材の名称が、クラウディウス帝(在位41年〜54年)にちなんだもの(出典はプリニウス)、もしくは続くネロ帝の時代にエジプト北西部で始まった大規模な鉱山開発に絡んで、クラウディアヌス山と呼ばれた重要な鉱山があり、それにちなんだものだとされ、それらを根拠として、偽デモクリトスの著作が一世紀より以前ではないことが証される、とされている。

本文(『自然と神秘』『銀の製造』『モーゼのキミカ抜粋』『漂白について』、および『デモクリトス書への註解(ディオスコロスについて)』)はいずれも断片で伝わっているもので、錬金術のレシピが主なのだけれど、中味は正直なところあまりよくわからない(苦笑)。ただ、個人的には、各節の末尾などに呪文のように繰り返される、「自然は自然に喜ぶ(ἠ φύσις τῇ φύσει τέρπεται)」「自然は自然に打ち勝つ(ἠ φύσις τὴν φύσιν νικᾷ)」「自然は自然を征服する(ἡ φύσις τὴν φύσιν κρατεῖ)」などの文がなにやら興味をそそる。全体として、自然の中にある種の潜在力があることが示されている。また、とりわけ最後の注解書(シュネシオスによる)に顕著なのだけれど、錬金術が単なる技術論にとどまらず、魂の治癒(苦しみからの解放)のための修行とも重ね合わせられ、認識を鋭くせよと説かれている点も見逃せない。初期(?)錬金術のテーマ的な広がりの一端を見る思いがする。

さらにその世界観においては、液体上になった金属(水銀など)が物体の潜在的な流動性を体現するものとして重視されている。これに関連して、たびたび言及される素材に「硫黄水」(θεῖον ὕδωρ)もしくは「神的な水」(θείου ὕδωρ)とされるものがある。金や銀の変成において重要な触媒(?)をなすものらしいのだけれど、例によってなにやらよくわからない。で、これについて同書の著書マルテッリ自身による英語の論考が公開されている。「偽デモクリトスの錬金術書における「神的な水」」(Matteo Martelli, “Divine Water” in the Alchemical Writings of Pseudo-Democritus, Ambix, vol.56, 2009)。言葉そのものからして曖昧なこの用語の、意味論的な確定をめぐって、やはり文献学的アプローチで追っている。が、実際にそれがどういう成分を指すのかは、証拠ベースではなかなか特定しがたいものがあるようだ。ちなみにマルテッリは昨年2014年には次のような新刊(英語版)を出している。