古代アテネの民主政

民主主義の源流 古代アテネの実験 (講談社学術文庫)橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験 (講談社学術文庫)』(講談社、2016)をざっと読み。古代のアテネ(アテナイ)に民主主義が花開き、衰退していった一連の流れを、その基本的な制度の概要などとともに、軽妙な語り口で説き起こす良書。もとは東京大学出版会から1997年に出ていたものとのこと。いろいろと勉強になる。プラトンは僭主政→民主政→寡頭政→僭主政……というサイクルを描いていたけれど、それが実際のアテナイの変遷を反映していることがわかる。面白いのは、この民主政が、今風の選挙に立脚するものでは全然なく、むしろ公職者の責任を監視し追求することを基礎として立てられている点。そちらの側面こそが、この民主政の民主政たる所以ですらあるかのようだ。このあたりはまさに、近代以降の諸制度が見失った観点。同書の著者には『アテナイ公職者弾劾制度の研究』(東京大学出版会、1993)などの著書があり、もともとそちらの視点からのアプローチを取っているようだ。

もう一つ興味深いのは、わりと一般的に語られる、ペロポネソス戦争後にはデマゴーグがはびこるようになり、民主政が衆愚政へと堕したという話に、同書がまた別の見方を示しているあたり。まずデマゴーグは、民会での説得術を武器に台頭した、経済力もあるいわば新興勢力で、旧来の貴族的な保守勢力からはよく思われず、そのため散々に非難されていたのではないかという話。また当時(前5世紀末)は公職者の弾劾制度の整備が進み、彼ら新興勢力の責任追及範囲も拡大してきていたという話。そこにあったのは必ずしも衆愚政治ではなかったのかもしれない、ということか。結局、その民主政が消滅した原因についても、内的な変化によるものというよりは、前4世紀後半にマケドニアが軍事力をつけアテナイに進駐するようになって、いわば外圧によって廃止に追い込まれたのではないかとの「仮説」を提示している。これはなかなか説得力のある説のように思われる。

「人間不在の思想は可能か」

ダーク・ドゥルーズ
少し前に出たアンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』(大山載吉訳、河出書房新社、2016)を、先日ざっと読んでみた。少しばかり消化不良というか、内容の細かな部分にはとくにコメントはないのだが、やや全体的に違和感も覚えたりする。表面的には、解放のための思想として読まれることが多かったドゥルーズを、むしろその否定的側面、既存秩序の破壊的な面から読み直すということを訴えたマニフェストなのだろうけれど、それ以上にドゥルーズはダシに使われている感じもし(?)、むしろ力点は既存秩序を越えて現実世界の徹底破壊を説こうとすることに置かれているかのようで(そちらのほうに読み方を引っ張っていく)、そのあたりにある種の共鳴しにくさを覚えるのも確か。そこでは人間性の諸問題を見据える・前提とするといった問題機制・視点があまり感じられず(……なんて言うのがそもそも古いのかもしれないが(笑))、例によって(この種のマニフェスト的な思想書にありがちということだが)提唱する変革・破壊の先に何があるのかは明確には示されない。それではいくら抜本的な革命を説こうとも、言説は空転するばかりになってしまうのでは……と、つい老婆心的な物言いをしたくなってしまう(じじい的だが(苦笑))。こう括ってよければ、こうしたある種の人間不在のスタンスは、正直なところどう判断すべきか悩むところ。そもそも人間不在の思想というものがありうるのか、それは議論として正当化できるものなのか、それは何か意味をもちうるのか……。メイヤスーやハーマンなども、ある意味人間不在感を沸々と沸き立たせるような議論を展開しているし、なにやらそうした思想潮流のようなものが、どこか不気味な預言的・終末論的胎動を感じさせることも否定しがたい。

非人間的に論理性を突き詰めるある種の分析哲学的ビジョンですら、その前提には人間の認識能力、推論能力への信頼みたいなものがあって、どこかで人間性に「繋がっている」。ところが別筋のほうから、それすらが希釈化され、下手をすると抜け落ちてしまうというような見識が、なにやら徐々に浮上しつつあるような感触さえ覚える……というわけだ。けれども、そういう不気味さにいつまでも拘泥しているわけにもいかない。で、そうなると考えてみたいのは、ではそうした呪術・預言めいた部分をそぎ落とした形でもなお、人間不在の観点、人間を基礎に据えないビジョンというのが喧伝できるのかどうか、できるとすればどういう論拠にもとづいて可能なのか、というあたりのこと。少しそうした問題をめぐる文献に目通しする必要もあるかもしれない。そのようなものとして、さしあたり、三類型くらいはあるかなと思う。1. 世界の破壊(を伴う変革)のビジョンを中心に据えるもの、もしくはそれを前提とする議論、2. 人間性から離れたところで、ある種の唯物論のようなものを徹底化するもの、3. 人間以外のもの、人間を越えた何かをビジョンの中核にすえようとするもの。この三つめなどは、古来からの神学思想の世俗版などが考えられる。

プロクロスのパルメニデス註解:分有論

Proclus. Commentaire Sure Le Parmenide De Platon. Tome IV 1ere Partie. Livre IV / Tome IV, 2e Partie. Notes Complementaires Et Indices (Collection Des Universites De France Serie Grecque)プロクロスの『プラトン「パルメニデス」註解』は、引き続き第4巻(Proclus, Commentaire sur Le Parmenide de Platon, Tome IV 1re partie. Livre IV / Tome IV, 2e Partie. Notes Complementaires Et Indices (Collection Des Universites De France Serie Grecque), C. Luna et A. Segonds (éd.), Les Belles Lettres, 2013)を読んでいる(個人的に入手した同書は、ちょっと売り方が変で、格安のものを購入したところ2分冊セットのうち本文を収めた第1分冊のみが送られてきた。校注をまとめた第2分冊は未着……というか、もともと含まれていなかった模様。ま、さしあたり本文があるのでよいけれど。上のリンクのamazonでの販売のものがちゃんと2分冊セットになっているかどうか不明なので、購入しようという奇特な方は注意されたし)。とりあえずほぼ前半部分を通読したところ。

以前記したように、4巻で扱われるテーマは「形相の性質とは何か、どのような固有の属性があるか」「現実の個物は何故に形相に参与するか、またどのような形で参与するか」の二つ。このうち後者の参与(分有)の問題が4巻の前半部分をなしている。パルメデスのソクラテスの対話篇をもとに提示されるのは、形相(イデア)というものがあるとして、それが具体的な個物とどのように関係していると考えればよいかという問題。形相側からトップダウンの目線で捉えるなら、基本的に個物は形相の「反照」「写し」「像」のようなものであるとさあれ、個物は形相に「与る」ことで、その「反射」を受け、魂において形相と「同一視」される。けれども、個物は感覚的なもの、形相は知的なものであるとするなら、感覚的なものから知的なものの認識に至るのはいかにしてか、が問題になってくる。ボトムアップのアプローチ。これはまさにトークンからタイプへの移行という問題だ。

この場合の分有が物質的な様態(分割共有とか、全体と部分の関係とか)でなされるのではないのは明らかで、そのあたりの議論はかなり手厚くなされている(大きさ、小ささ、同等性などの形相が取り上げられ、形相というものは分割可能ではないことが論証されていく)。では別様の、非物質的な分有の様態とはどんなものか、という段になると、プラトン主義的に、議論はしばし形相の超越性、分有の超越的性格へと移っていく(質料の暗闇を照らす光としての形相、そもそもの太陽として照らし出す一者、あるいは弦の共鳴作用の比喩などなど)。また、そうした超越的事象の文脈で、個物から形相への認識論的シフトが、神秘主義的な上昇として示唆される。さしあたりここでは詳細には紹介できないが、やはり上の分有をめぐる手厚い議論のあたりが、哲学的議論として、前半における最も豊かで奥深いものであるのは間違いない。