連休中に読むかなと思っていた一冊を前倒し。エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道 』(槍垣立哉、山崎吾郎訳、洛北出版、2015)をざっと見。タイトルから連想されるような具体的な人類学的知見が展開しているわけではなく、むしろ一種のマニフェストのような本だ。ドゥルーズ=ガタリに触発されて、後期レヴィ=ストロースを読み直すという趣の、良くも悪くも旧来の現代思想的な本ではある(知的刺激と、それなりの読みにくさと)。けれども一つ面白いのは、まず冒頭で、同書が架空の『アンテ・ナルシス』なる本の註解のような形で書かれていると告げている点。屋上屋?いやいや、むしろそれはメタの位置取りということなのだろう。実際そのように全体の議論は進んでいく。検討の対象とされるのはレヴィ=ストロースの人類学的知見。広義の神話を扱ったその論考そのものを一種の神話として読み解く、という感じか。
著者本人は同書において、パースペクティブ主義(語る者の側からみた視点を尊重する)、さらには多自然主義を標榜している。多文化主義が「一つの自然に対して多数の文化がありうる」という立場だとすれば、多自然主義というのは「一つの文化(的営為)に対して多数の自然がありうる」という立場のよう。何度か出てくる、獲物の血がジャガーにとってビールである、という話に代表されるように、なんらかの鋳型としての文化に、複数の自然が対応するという考え方だ。そこから帰結するのは、いわば安易な一般化を許さないような個別事例同士の照応関係だ。そうしたラインが、レヴィ=ストロースのテキストの中にいくつも見いだされていく、というわけなのだが、するともはや初期のレヴィ=ストロースに散見されたような静的な構造ではなく、そういう構造の生成そのものが再評価されなくてはならない。そうした生成へのアプローチを始めていた後期レヴィ=ストロースへの評価が改めて高まることにもなる。リゾーム化する構造、ドゥルーズを引き継ぐ実践的な哲学としての人類学……。可能性の地平はここで大きく開かれる……のだろうか。
思想史研究なども広義の歴史人類学だと思っているのだけれど(前にも書いたが、個人的にレヴィ=ストロースは元気の源だったりする)、しばしば硬直した思想伝播の「構造」に拘泥しそうになったりするのを打破しうるかもという意味で、この「レヴィ=ストロース論」は確かにある種の刺激を与えてくれるものでもある。
アラン・ド・リベラの『主体の考古学III – 二重の革命 – 思考の行為1』(Alain de Libera, Archéologie du Sujet III : La double révolution: L’acte de penser 1 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie) , Paris, Vrin, 2014 )を、時間的に飛び飛びに読んでいるところ。第三巻めの前半ということなのだが、相変わらず、ある意味自由闊達に時空を飛び越え、中世と近代とを往還しつつ議論が進んでいく。仮定として出される理論やテーゼを独自のシーグル(略号)で表したりもするため、ちょっと油断していると前に出てきたシーグルの意味を忘れてしまって、そこまで戻らなくてはならなくなったりもする(苦笑)。その意味で、多少とも読みにくさはあるのだけれど、前の巻に比べてわずかながら図式的な整理が進んでいる気もする。すごく大まかな見取り図で言うなら、この巻の主要なテーマは、主体概念と客体(対象)概念のそれぞれが、ある種の「交差配列」を経て成立していく過程ということになりそうだ。
主体の側で言うと、アヴェロエスの知性の二重化(能動知性・質料的知性)によって導入された、思考する離在的「主体=エージェント」とでもいう概念が、アヴェロエス派に対するトマスの反論によって、いわば各人の内面に一元的に取り込まれることとなり、いわば分裂した主体(操作としての思考と対象としての思考)としての人間という考え方が広く定着していく(トマスの学説が標準として確定されることによる)。対象の側で言うと、トマスのその教説においては対象も二重化し、外的対象と、思考対象としての像(スペキエス)が確立される。やがて今度はペトルス・ヨハネス・オリヴィがそれを批判するようになる。そこでの眼目は、スペキエスなどの仲介物を介さない、対象と思考との直接的なやりとりを目することにあるのだが、オリヴィの説も、それに追随するフランシスコ会派の考え方も大勢を得るにはいたらない。それははるか後代にまで持ち越される。やがて出てくるのが、18世紀のスコットランドの哲学者トマス・リードだ。
リードは表象主義(観念説)を否定し、ある意味オリヴィ的な直接主義(直接的現実主義)を主張する。そこで否定される観念説というのは、外界の対象物の像(対象物そのものではなく)を認識の対象に据えるという立場で、いわばトマス的な像(スペキエス)の正統な末裔とでも言えそうなものだ。リードによれば、プラトンからヒュームまで、そうした観念(イデア)を認識対象に据えてきた点は共通だったとされる。デカルトなどもアリストテレスなどのくびきを揺さぶっただけで、そうした共通の教えを打破するところまでは行っていない、とも主張する。ここに一つの結節点を見て取るリベラは、一方でリードの継承者でも批判者でもあったウィリアム・ハミルトンなども取り上げていく。このあたりの詳細は第三巻の後半(現時点では未刊)を待たなくてはならないようだけれど、いずれにしてもこのように、リードとその周辺においてこそ、主体と対象のそれぞれの二重化は確立され、それらの交差配列が近代的主体の基礎となっていくというのだ。
少し前からトマス・アクィナス『ヨブ記註解』 (保井亮人訳、知泉書館、2017) を読んでいるところ。まだざっと三分の一程度だが、いずれにしてもこのような書が邦語で読めるとは、なんとも素晴らしいの一言に尽きる。ヨブ記をめぐる注解なので当然ながら内容的には神義論が大きな部分を占める。もちろん、自然学的な記述や、ストア派・パリパトス派などの考え方への言及なども数は少ないものの散見される。けれどもやはり主体となるのは神学的な注解だ。しかもこれがなかなか興味深い。たとえば12章。ヨブの苦境を本人の罪によるものと考える友人たちに、ヨブは反論を試みるわけだが、トマスがそこに読み取るのは義人を嘲弄する富者への批判と、その際の義人の擁護のみならず、富者の富もまた神がもたらすものであるとする過剰なまでの神の肯定論だ。
「義人が嘲りを受けるのは明らかな悪のためではなく、隠された善のためである。(中略)最高善をとみに置く者は、富を獲得するために役立つものであればあるほどよりいっそう善であると考えるのが当然だからである。(中略)たとえ義人の単一性そのものが富める者の考えにおいて軽蔑されるとしても、それは時が来れば然るべき目的から欺かれることはない」(p.227)。「人はその目的を富に置くことによって、(中略)このようにして略奪によって富において栄えるかぎりで略奪者となるのである。(中略)しかるに、彼が略奪によって富を得るとき、彼は神の義に反して行い神に逆らっている」(p.228)。けれどもヨブは、与えたのは神であると言う。「悪を為そうという意志はその者自身にのみ由来するので、彼らは略奪することにおいて神に逆らうが、続いて起こる繁栄は神が彼らに与えたものだからである」(p.229)。
こういった両義的な議論の数々は、ユダヤ=キリスト教的伝統の懐の広さのようなものを改めて感じさせる。そういえば時おり経済の文脈で話題に上る「マタイの法則」(富める者はいっそう富み、持たざる者は持っているわずかなものまで奪われる、というマタイ伝13章12節をそう呼んでいるようだ)のもとの箇所もそんな感じかもしれない。イエスが弟子たちから、なぜ喩え話を用いて話すのかと聞かれた文脈でそう答えていて、そちらは文章の流れからして、経済とは関係のない、いわば信仰にまつわる象徴財を持つ者、持たざる者(社会的な富者はこちらに入る)について語っている箇所なのだが、それに続く箇所では、敵が来て蒔いた毒麦も良い種と、ともに収穫のときまで育つままにしておくよう主人が言うという喩え話が語られる。毒麦には毒麦の、なんらかの役割があるのだと鷹揚な構えを見せているかのように……。
事前の予想通りというべきか、これはまた実に刺激的な一冊。國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 』(医学書院、2017) 。表題にある中動態とは、一般的な能動態・受動態のほかに、古典ギリシア語などにある第三の態とされるもの。再帰的な動作や、そうした動作の結果もたらされた状態などを表すとされるのだけれど(同書では本来の意味の再構成・解釈がほどこされる)、これをまずは言語的に、次いで今度は哲学的に再考しようという一冊。言語的な議論と哲学的な議論がサンドイッチ的に(というか、どちらかといえば豚肉と白菜の挟み煮的に?)登場する面白い構成。まずは言語的な議論の部分がとても面白い。
今ならば能動態・受動態が対立するものとして示されるが、本来は能動態に対立するものは中動態ではなかったかという仮説を紹介している。米国の文法学者ポール・ケント・アンダーセンの説(古典ギリシア語の動詞活用は、能動態と中動態しかないという説)、言語学者ラトガー・アランの中動態の意味論(中動態は主語の被作用性を表すとする説)、そして大御所エミール・バンヴェニストによるインド・ヨーロッパ語族全体にわたる説(祖語においては中動態しかなかったかも、という仮説)、さらには日本の英文学者、細江逸記の文法論(実は日本語にも中動態的表現があるという話)などを援用して、中動態が全体の一種の古形であった可能性を示している。インド・ヨーロッパ語族の祖語(共通基語)の話などは、同書も述べているように憶測という域を出ないわけだけれど、少なくとも中動態的な表現の痕跡が現代語にも残っている(と見ることができる)のでは、というあたりは興味深いところだ。また、著者も言うように、バンヴェニスト(本書で最初に登場したときには、ちょっといまさら感も感じだが)の様々な着想の掘り起こし・掘り返しという作業は確かにやりがいのありそうな領域ではある。
さて、哲学的議論のほうは、この中動態と自由意志をめぐる問題が関連付けられて、そちらも面白い議論が展開している。能動・受動と意志の有無の問題は、必ずしも重なっていないとされ、そうした能動・受動の外側に広がるものを中動態という観念で手当できないか、という問いが発される。取り上げられるのは、「ギリシアには意志というカテゴリーは存在しない」というギリシア史家ヴェルナンによる示唆や、言語と思考との関係をめぐるバンヴェニストとデリダの対立についての再考、アーレントにおける意志論の陥穽(非自発的な同意という問題)、ハイデガーの意志批判とドゥルーズの「出来事」論、そしてスピノザの汎神論的世界観が、いわば中動態だけがある世界ではないかという指摘などなど。それら論考のいずれも、中動態的な考え方による批判もしくは再評価に貫かれている。
文法が哲学的思想の枠組みに大きく影響しているという話は昔からあり、個人的にも学部生時代に受けた故・西江雅之氏の言語人類学の講義などが思い出されるが(西欧の存在論がbe動詞の枠組みに大きく影響されているという話など)、ここでは中動態が一種の被抑圧形態として示され、それが能動・受動の区別に収まりきらない残余、ひいては意志・強要の区別の外側を成すものとして引き合いに出されている。なんとも示唆的だ。ほかにも、細かい話になるけれど、アリストテレスの10のカテゴリーが、ギリシア語の基本的カテゴリーを反映したものだという話(バンヴェニスト)や、ストア派の出来事の理論の背景に動詞とその活用の重視があり、一方のエピクロス派が原子論と「傾き」の議論を展開した背景には名詞の格変化の重視があったという話(ドゥルーズ)なども言及されている。ストア派にならって動詞を礼讃するドゥルーズにしてからが、人称も時制も態もない「フランス語の不定法」にもとづいている、という指摘もある(ギリシア語の不定法には時制や態がある)。これらは改めて考えさせられる諸点。文法と哲学の密接な関係というのは、もっと前景化されてしかるべきなのかもしれない。
前回の記事で取り上げたブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論 』 では、その時間論について、訳者の江川氏の論考部分が次のように指摘している。ディデュモス(前一世紀の文献学者)が言うには、「クリュシッポスは、現在だけが<存在する>のであって、過去と未来は<成立する>が、けっして存在しないと述べている」という(p.157)。それはつまり、現在が行為・活動そのものとして限定されている(有限の時間)がゆえに、実在的な出来事を含むものとして「存在している」とも言える、ということだと解釈される。時間は非物体的なものなので、そもそも「実在」してはいないからだ。一方の過去や未来は、無限の時間に属し、「現在」の外側に無限に広がっているとされる。江川氏によれば、それは時制的・人称的に活用された動詞によって表される出来事ではなく、不定法的に表される出来事なのだという(p.158)。ここで、この「現在」の問題がにわかに注目される。
そしてこれはとても既視感のある問題でもある。折しもつい最近、時間の非実在性にまつわる哲学史的にも重要な論考がようやく邦訳され刊行された。ジョン・マクタガート『時間の非実在性 (講談社学術文庫) 』(永井均訳、講談社、2017) だ。よく知られているように、マクタガートは、モノが時間的に実在するという場合、それは二つの「系列」のいずれかに準拠して言明されなくてはならないという仮説を示し、その二つ、つまり過去から現在、未来へと実体の変化が位置づけられるA系列と、実体が静的な前後関係にのみ置かれるB系列のどちらも、時間の実在を立証するものではないことを論じていく。「現在」の問題は、そのA系列について論じる際に出てくる。いま経験している知覚について言明するには、それを一定の幅のある「見かけの現在」で限定するしかないが、出来事が実在的に通過していく「実在的な現在」はその見かけの現在とはどうあっても一致しない。そこには矛盾が生じる。結局、そもそも実在的な現在はそれ自体として規定されることはなく、一方の知覚される現在とは錯覚にすぎない。すなわち、両者のいずれであろうと「現在なるもの」は実在しない、ということになってしまう……。
こうしてその議論は、ブレイエが説くストア派の非物体的なものの議論と実に見事に重なってくる。マクタガートもまた、A系列にもとづく過去・現在・未来が、動詞の時制にもとづく文法的なものであることを指摘してもいる。時間はこうして「レクトン(言明できること)」に括られるしかないのだろう。余談ながら、ブレイエとマクタガートの両作品が1908年という同じ年に刊行されていることもなにやら示唆的かもしれない、なんて(笑)。マクタガートのこの邦訳も、ブレイエ本と同様に、訳者の永井氏による注解と論考が収録されているのだけれど、そちらもまた、まさしくこの「現在」という問題に切り込んでいる。
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