前回挙げたネフの著書では、コネクションの問題を前景化(ライプニッツの前に)した嚆矢としてストア派が挙げられている。唯物論的でホーリズム的だと評されるストア派のコスモロジーでは、物体や物質は一続きになっており、それぞれの間に無はなく、プネウマがそこをしっかりと埋めている。そしてそのプネウマこそが、世界の整合性をもたらしているとされる。それはまた、物体の一体性を担う特性・傾向(ディスポジション)ともパラレルであるとされ、こうしてある種の混成・混在・接続でもって世界観が織りなされている、と。
こうした連続性、一続きの発想は、諸概念にも適用されていることがわかる。プルタルコスの『モラリア』の一部をなす対話篇『ストア派に対する、共通概念について』(Loeb版:Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library))は、主に倫理学的な問題、ストア派における善と悪の問題などを扱い、矛盾などを指摘しながら批判していくという一篇なのだけれど、逆にそこからストア派の考え方の一端が浮かび上がる。プルタルコスは、ストア派が自然本性にもとづく生を目標としながら、自然における諸力に従って右往左往するのは愚かしいとしていることなどを矛盾として取り上げるが、ストア派側からすれば、目標にそった生き方そのものもまた、それに至る前の愚かしいとされる生き方と一続きなのであり、悪から善へのいわば連続的・漸進的な差異があるだけで、それを知覚するかどうかもまた、連続的に移り変わるだけだということのように思われる。絶対的な悪はともかく、多少の悪は程度の差こそあれ人の生について回るほかないとされ、それらは善への志向と表裏一体であるとされる。こうした考え方は他の諸概念にも敷衍されていく(在・非在など)。
そんなわけで、以前に見たレクトンの概念もそうだが、このストア派の哲学には今なお、多少とも形を変えて新しい息吹(プネウマだ)を吹き込む余地がありそうに思われる。