思うところあって読み始めていた梶尾叡一『不干斎ハビアンの思想:キリシタンの教えと日本的心性の相克』(創元社、2014)を読了。不干斎ハビアンというのは、キリシタンの指導的知識人として活躍していながら、1621年に亡くなる10年前から棄教し、キリスト教の教えを批判する書をしたためた人物。そんなわけでその思想的変遷は研究の対象として誠に興味深い存在でもある。なにゆえに棄教したのか、棄教するまでにどのような変化があったのか、教義は本当に血肉化されていたのかなどなど、様々な点が問題になりそうだ。キリシタン時代の著書(『妙貞問答』)と棄教後の批判の書(『破提宇子』)をそれぞれ読み解く論文からなる同書は、そうした問題に対する回答として一つの見取り図を描き出している。たとえば『妙貞問答』からは、普遍主義的な感覚が色濃く出ていて、キリスト教の根底にある選民思想のような部分がほとんど見いだせないという。またイエスそのものが説く精神的覚醒としての救いのメッセージも希薄で、また三位一体などの公式の教義なども取り上げられず、ひたすら神への帰依だけが前面に出てくるのだという。また、その書に出てくるという仏教批判についても、輪廻や前世の因果といったテーマが批判対象として取り上げられていないといい、そうしたことから、ハビアン本人の中に根付いていた土着的(日本的と称される)心性が、教義の受容をどこか歪めるモーメントとなり、さらに西欧の宣教師たちの尊大さや日本人蔑視などへの反発などが相まって、棄教、ひいてはキリスト教への批判・非難へと繋がっていくのではないか、というのが論考の大まかな見立てとなる。
後の批判の書『破提宇子』からも、ハビアン本人の思想的特徴として「現世主義」「世俗主義」「述語的認識志向」「合理主義」を抜き出し、それらにむしろ好意的な評価を下している。キリスト教関係者の側から批判的になされたものが多いという従来のハビアン研究(背教者というわけなので、目の敵になるのは当然なのかもしれないが)に対して、その点が同書の試論としてのメリットだろうと思われるが、一方で日本的心性といった本来的に慎重さを要する記述がやや安易に使われている感じもあり、そのあたりはむしろもっと幅広い見地、土着的風習と後からもたらされた宗教的教義との対立がどう融和・混成するのかといった人類学的な視点から考えるべき問題のようにも見受けられる。というか、そういう方向に問題を開き直す、という問題提起と読めなくもないか。