この夏もいくつか興味深い映画とかに出会いました。そのうちの一つが、ドミニク・モル監督作品『悪なき殺人』(2019)でした。数年前の公開作ですが、wowowオンデマンドの配信があったので出会えました。原題はseuls les betesで、英語タイトルもonly the animalsになっています。でも、やはり邦題がなんといっても秀逸ですね。映画は、ある殺人事件をめぐり、5人くらいを軸に、それぞれの物語を群像劇のスタイルで見せていくのですが、彼らのどこか因果めいたつながりが、「悪とは」「悪意とは」といった難しい問いを発せしめ、考察を促します。
https://www.imdb.com/title/tt10409498/

登場人物たちは、それぞれに心に満たされない空隙のようなものを抱えて生活しています。その空隙、あるいは空回りする欲望が、ときにその人物を突発的で予測不可能な行動に走らせます。多くの場合、それは誰か相手を巻き込むことになり、相手にも欲望とその障壁の狭間を生じさせ、いわば動物的な「悪のような行動」へと駆り立てます。こうして空隙は次々に連鎖をかたち作ってしまい、悪のような行動が人から人へと広がっていきます……。
その空隙、それはまるで手負いの動物の傷のようなものです。こんなことを思うと、まったく別の映画へと、タイトル(邦題)繋がりで思考が飛んでいきます(苦笑)。『悪は存在しない』(濱口竜介、2023)ですね。
https://www.imdb.com/title/tt28490044/

これ、それまでの濱口作品とはどこか違う、少し毛色の違った一作で、どう理解していいかなかなかわからないラストにいたり、騒然とした思いに囚われてしまいますが、女の子が亡くなるのが手負いの鹿に近づいたため、主人公が東京から来た開発業者に暴力的な行為を及ぼすのも、娘を失い手負いとなったため、というふうに見たまま解釈するならば、描き出している心的な力学は『悪なき殺人』にとても近いというか、相互に通底しているかのように思えてきます。
少し古めの本ですが、ジャン・ナベールの『悪についての試論』(杉村靖彦訳、法政大学出版局、2014)には、「正当化できないもの」という言い方で、人がなにかによって被る空隙について、次のように述べています。
それらはいかなる鎮めも想像できないような災悪であり、内的存在の裂開であり、葛藤であり、苦しみである。厳密な意味での悪とは、過ちのただ中で、いわゆる道徳的判断を排除することなく、道徳的判断を超えるものへと私たちを引き戻すものであるが、今述べた正当化できないものの形態としての災悪には、そうした悪と共通するところがある。共通するのは、規則に合っているか反しているかを決定する際に参照する意識のカテゴリーや機能によっては捉えられないという点である。(p.23)
その「正当化できないもの」を捉えるためにナベールが推奨する方途は、「正当化できないものの痕跡を探し求めた世界から、正当化できないものの真の源泉である自我へと還帰することである」(p.40)とされています。自己を見つめることができない(人に限らず動物もそうだとされるわけですが)状況に置かれたとき、いかにその傷を、空隙を、突発的な行動にいたる手前で引き受けていくことができるのか。上の映画たちはその答えを必ずしも用意しているとは思えませんが、それでもなおたえずそれを自己に(自我に)引き戻せ、とナベールは言っているように思われます。
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