シェリング・ルネッサンス?

岩波の『思想』11月号が、「蘇るシェリング」と題した特集を組んでいますね。さっそく見てみました。
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青土社の『現代思想』も、6月号臨時増刊号で「シェリング」を特集しています。これはどういうことなのか、とも思いますが、一つには生誕250年だというのがあるようです。それとは別に、いくつかの研究書が出ていて、どうやらドゥルーズなどとの関連が指摘されているようなのですね。『現代思想』の巻頭を飾る、檜垣立哉・浅沼光樹の対談に、そのあたりの話が出ています。最近人気(?)のマルクス・ガブリエルなども、実はシェリング研究から出発しているとのことで、ポスト現代思想(思弁的実在論とか)との関連性もあるのだとか。
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シェリングはフランスでは長きにわたり研究されてきた伝統があるそうなのですが、個人的にはこれまでノーマークでした。入門編として定番化している(?)村岡晋一『ドイツ観念論』(講談社選書メチエ)などを見ても、まるまる一章が割かれているわりには、フィヒテなどに比べるとあまり目立っていない印象です。でもこれだけ雑誌特集として取り上げられているからには、ちょっと面白いのかも知れない、と早くも好奇心が向かっていきますね。

まずもって面白そうなのは、中・後期とされる『自由論』の話でしょうか。上の岩波『思想』でも、長坂真澄「現象学のシェリング的転回」や、益敏郎「挫折する詩人と思想家」などの論考が、自由論、とくにその悪の起源をめぐるシェリングの議論について、わかりやすく解説してくれています。神の実体と根底の違いという、一元論的な世界に二元論的な議論で挑むがために、端から挫折を余儀なくされるシェリング。なにか悲壮なものを感じさせずにはいません。原テキストにぜひあたってみたいと思います。巻末にはマルクス・ガブリエルが、『オックスフォード版19世紀哲学ハンドブック』に寄せた、シェリングの項目の内容が訳出されています。

モリス・バーマン(の主著の前半)

夏にベイトソンを読んだ勢いで、これまた以前から読みたかったモリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化』(柴田元幸訳、文藝春秋、2019)を読み始めました。まずは近代初期の占星術・錬金術・魔術が廃れるまでの通史を概観する前半。原書は1981年ですし、邦訳も1989年に一度出ていたものの再刊ですね。
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この概観、それなりにうまくまとまっていて好印象です。17世紀ごろまでもてはやされた錬金術について、ユングはそれを、外部への働きかけであると同時に内的な変容をもたらすものとして解釈したわけですが、そのユングのアプローチもまた、すでにして近代科学の思考法(つまりは外・内の二分法)を投影したものに過ぎず、いにしえの時代における実像とはかけ離れていたのではないか、とバーマンは指摘します。

実像を明らかにする、というのは相当難しい作業でしょうけれど、少なくとも文献的には、外部と内部をひと続きのものと捉える思想が、当時の主要な学者たちに散見される、というのですね。たとえば、音楽や呪文によって身体と魂に変化がもたらされるとするフィチーノなど。しかし占星術にもとづくそういう思想は、「時代が下ると操作的・世俗的な面ばかりが受け継がれるようになる」、と。

錬金術の諸要素はあるときまで、キリスト教によって利用されていたといいますが、キリスト教には、同時にそれを異端として糾弾するという二面性もあったわけで、ロバート・フラッドなど、それを普遍的な宗教に押し上げようとする動きに対しては、たとえばメルセンヌやガッサンディなどが宗教的な面から批判を加えて行くといいます。と同時にガッサンディには、史上初の「科学実証主義的な発言」もあったといい(世界霊魂が存在することをどうやって証明できるのか、などなど)、目測などを重視する科学的思考が、徐々に拡大していくことが観てとれる、とのこと。

プロテスタントによる魔術の弾劾は、結果的に中流階級への現世的な救済を与えたものの、下層階級は放置されて、彼らはヘルメス主義に固執していくといいます。バーマンは、17世紀の下層階級のヘルメス主義は、一種の社会主義的な色彩すら帯びていたと言い放っています。このあたりの話はキース・トマス(初期近代の研究者)にもとづいているようですが、なかなか面白いですね。オカルト的なものは1640年代をピークとして、1660年代にはデカルト的な機械論哲学に取って代わられるといいます。

バーマンは、思うに編集志向が強い著者なのでしょう。「分離した個ではなく関係に注目する科学」「参加する観察」といった、ホーリスティックな思考にもとづく科学にこそ未来があるのではないか、とするその基本姿勢にも、そのことが反映されている気がします。いずれにしても、それが後半(ベイトソンの周辺?)の流れになっていくようです。

哲学史とドゥルーズ

少し前に購入した岩波の『思想』(2025)6月号に、一通り目を通しました。特集は「哲学史の中のドゥルーズ」。奇しくも今月4日はドゥルーズの命日に当たりますね。今年は生誕100年、没後30年という話です。クラシック音楽などで多用されるこの生誕・没後〇〇年、学問的な世界ではあまり言いませんでしたけど、最近少し目にするようになってきました。それだけ最近は話題不足なのでしょうか?
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2005年の『現代思想』(8月号、特集「ドゥルーズの哲学」)を見ると、対談の冒頭部分で宇野邦一氏が、「ドゥルーズが紹介されてずいぶん時間も経っているので、若い研究者もたくさん出てきて、アカデミックな文脈で読む、哲学史的な文脈で緻密に読む、という試みも目にするようになりました」と語っていますが、そこから20年を経て、哲学史の中のドゥルーズという題目で、特集が組まれるようになり(雑誌は違っていますが)、隔世の感を覚えます(苦笑)。

個人的な勝手な感想を言うなら、ドゥルーズの単独での著述活動は、基本的になんらかの哲学者、もしくは哲学的なテーマのある側面(ジルソンにもとづく「存在の一義牲」とか、ブレイエにもとづくストア派の「非物体的なものの論理」とか)を借用的に取り上げ、そこからの独自解釈を通じて、結果的にその哲学者、あるいは哲学的テーマの輪郭を、従来よりもはるかに際立たせてみせる、というものが多いように思えます。

でも結果的に、ドゥルーズの議論は、取り上げる当の哲学者やテーマなどの、とても興味深い、一風変わった視点からのまとめになったりもするように思われます。その意味で、その哲学史への構え方や目配せというのは、とりわけドゥルーズ本人の哲学的営為の核心部分なのではないか、とも思えますし、出発点となっている「借用」(語弊がありますが)についての精細な読みは、より重要な研究領域になりそうな印象です。余談ながら、フランスの知的伝統における「借用論」を、より総合的な研究でもって読んでみたい気もします。

で、その『思想』6月号の特集ですが、ドゥルーズと哲学史との関わりという点では、スコトゥス、ストア派、スピノザ、ライプニッツ、ベルクソン、ニーチェあたりはもはや定番という感じでもありますが、同誌のちょっと面白いところは、キルケゴールとの関わりや、ジャン・ヴァール(ベルクソンの弟子で、1930年代にヘーゲルやキルケゴールの紹介者でもあった人物)とのからみ、さらにはホワイトヘッドとの接合といった、従来あまり言及されない人物たちとの関連性が、いくつか検討されていることでしょうか。そういうマイナーどころも(と言ってはナンですが)要注目かもしれません。