「Humanities」カテゴリーアーカイブ

情緒・情動・身体感覚的な近未来へ

青土社の『現代思想』は、このところ毎年のように、1月号で総覧的・展望的な特集を組んでいますが、2026年は「現代思想のフューチャー・デザイン」というタイトルで、人文・社会系の諸分野の「将来的な展望」を特集していますね。
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やや細分化されている現代の学問領域を反映するかのように、全体的にそれぞれ少し窮屈そうな世界観で議論が展開していく感じがしますが、それでも面白そうな話はいくつかあります。たとえば宗教学的な観点からの、将来の日本の宗教のあり方を予想した論考(岡本亮輔)。論理などではない、情緒にもとづく実践が、日本だけでなく、世界的にも、これからの宗教的な動向をつくっていくのではないか、と指摘されていて、なかなかに興味深いです。情緒はときに乗り越えがたいものである以上、組織体としての宗教が衰退しても、宗教的なもの自体は存続するだろう、という見立てですね。

家族はどうでしょうか。家族を制度の中心ととらえる感性も根強いですけれど、一方で、もはやそれはかっちりした一枚岩のものではなくなって、いろんな面で多様化し、従来的な価値観に照らすと、ほころびが出始めているように思います。収録の論考(永田夏来)には、「もはやそれは不動の単位ではなく、人々の関係編成を支えるインフラとして解体・再配置されつつある」との指摘があります。情緒というか、親密さそのものが複数化していると説いているわけですね。家族というものが、固定的単位というよりも、ゆるやかな関係の網の目のようになっていく未来。それは思いのほか近いものなのかもしれません。

デジタル化の流れの中で、視覚・聴覚に大きく遅れをとっているのが嗅覚だという指摘もありました(岩崎陽子)。嗅覚は「化学感覚であることに加え、身体経験、記憶、社会文化的文脈を束ねる総合的な知覚である故に、単純なデータ化や抽象化に抵抗する」といい、ゆえにそれは「現代科学の方法論が抱える限界を露呈」しているのだといいます。著者はさらに、これは単に技術だけの問題ではなく、「未来の人間理解を左右する分岐点」でもあろうだろう、と論じています。

高齢化社会の中で、アンガーコントロールの重要性が取り上げられることも多くなってきましたが、もうひとつ、嫉妬(エンヴィー)のコントロールもきわめて重要だとする論考もあります(源河亨)。嫉妬には固有の問題性があるといい、それは相手に対する正当性のない敵意を抱いてしまうことだといいます。そのため、ありもしない「相手の不正」をでっち上げてまで、敵意を正当化しようとする、というのですね。フェイクの義憤が事後的に練り上げられるというのは、なるほどなあと思います。

こうして並べてみると(もちろんほかにもいろいろな論点がありますが)、なにやら今後の近い将来において大きな問題圏を作りそうなのは、情緒・情動・身体感覚といった、とても身近で個人的・内密な領域かもしれない、と思えてきます。そうしたものは、現状では一元論的な記述でのアプローチしかなさそうに見えますが、なにかオルタナティブなアプローチの可能性というのはないのでしょうか(ガブリエル・タルドが説く、よりいっそう細やかな統計とか??)。そのあたりのことを、個人的にも、今年もまた引き続き考えていきたいと思う次第です。

今年も一元論について考えたい

明けて2026、おめでとうございます。今年もいろいろな書籍や映画、音楽などに出会いたいと期待しています。というわけで、まずはこの年末年始の「年越し本」から。

まず、去年の夏ぐらいから、一元論のアプローチについて、いろいろ考えてみたりしていた、というのがあって、その流れで大森荘蔵『物と心』(ちくま学芸文庫、2015年)を見てみました。もとは1976年刊行の本。
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自己の意識と外の世界の物質について、両者を区別するものは何もなく、両者ともに「立ち現れ」があるだけなのだとするラディカルな立場が示されます。でもこの「立ち現れ」そのもの(観念などを介さずに、直接的に触れること(?))が、なにやら釈然としない感じもありますね。

思うに一元論的記述は、たとえばなんらかの対象について、その対象に当事者として関わる人が抱く、情感や実感、細やかな現実認識といった、数字など客観的なデータでは捉えきれない部分を汲み上げるためには有効なのでしょうけれど(現象学などがそうだったりします)、あらゆるものが本質的にそのような構図で捉えられる、それがすべてだと言い切ってしまうとき、なにかまた別の問題を導き入れてしまうように思えます。なんらかの対象が想起されるなどのときの、その対象となるものは、いったい何だということになるのか(対象という言い方がすでにして二元論的ですが)、とか。

ちなみに文庫版の巻末の解説で、哲学者の青山拓央氏は、物に対する心を考える限り、立ち現れ論は観念論ではないが、他我に対して二義的に心を考えるとき、独我論的なものとして、観念論になってしまう、みたいなことを書いていますね。他我の関係まで一元化しようとするとき、はたしてその一元論は、論述としてそもそも成立しうるのでしょうか?ある種の詩にしかならないのでは?いずれにせよ、それはとても困難なものになりそうです。

哲学的エッセイ対決(?)

洋の東西というか、方向性(ベクトル)の対比を強く感じさせる哲学的エッセイを2つほど立て続けに読みました。一つはペーター・スローターダイク『水晶宮としての世界:資本とグローバル化の哲学のために』(高田珠樹訳、青土社、2024)です。現代世界を5層から成る水晶宮(これ、ドフトエフスキーにもとづいているものらしいですが)に見立て、スローターダイク自身の球体圏論(同書に先立つ三部作で刊行されたもの)のエッセンスを踏まえた上で、決して脱し得ない巨大な監獄のような空間について、哲学史へのリファレンスなどを含めつつ、思考を縦横に巡らせて行きます。
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文体はそこそこ軽妙でも、いかにも硬質な西欧的思考だなと感じさせるのは、まずは世界観として、天空のような壮大なもの(大型の温室、世界宮殿、結晶化した世界システムなどなど、様々に言い換えられます)から出発し、いわばトップダウン的なベクトルでもって、事物・事象の配置を考察しようとする身振りがあるからでしょう。著者の語る対象は、どんどん下方へと向かっていき、最終的には副題にあるように、資本によるあらゆるものの流動化や、それにともなう圧縮や加速化に話が及んでいくのですが(それに抵抗するものが、著者が称揚するローカルなものだったり、地域的な文化だったりする、というわけなのですが)、まずは越えがたい天蓋が、伽藍が、形をかえながらも、いつも覆いかぶさっているイメージがあるように思えます。

こうしたトップダウン的なビジョンとは別の、ボトムアップ的な視座で世界をつかみとろうとするかのような哲学エッセイが、もう一つの、山内志朗『流れることへの哲学』(慶応義塾大学出版会、2025)です。
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こちらは著者のとても私的な、内省のエッセイという感じですね。アヴィセンナをもとに、存在論を流れの中で現出するものと捉える境地、「花が存在する」ではなく「存在が花する」と言わしめるような境地から、世界を見つめ直そうという語りの試み、というところでしょうか。ここには、あらかじめ仮構された伽藍のようなものは見当たりません。哲学史的なリファレンスはもちろんあって、スピノザ(個人的にはスピノザがなぜ流れの思想家なのか、ちょっとよくわからないのですが)やドゥンス・スコトゥスなど、著者がこれまで取り上げてきたテーマのほか、中動態の話などにもページを割いています。自身の研究の歩みと、数々の著作で触れられていた事象とが重なり合って、とても内密な、思想の手触りがうかがえる貴重な本になっている気がします。これまでにない(?)味わい深い一冊です。

この両者のスタイル、方向性、基本姿勢の違いは、どこかとても鮮烈です。同時にそれは、内的な志向性の違いにとどまらず、文明論的・文化的な対極でもあるのかも知れないなどと、師走のこの慌ただしいときにもかかわらず、勝手に妄想し楽しませてもらいました。著者たちや訳者・編集者などに感謝。

シェリングについて再び

前回取り上げた『現代思想』誌のシェリング特集の増刊号、引き続き読んでいます。
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やはり個人的には、フランス系の哲学・思想とのつながりがとても気になるところ。ここまで読んだうちでは、ユク・ホイ「個体化の視差:シモンドンとシェリング」、小倉拓也「マルディネのシェリング主義」などがとりわけ印象でした。というわけでメモ。

まずは技術的対象物などの個体化論から出発したシモンドン。そのシモンドンがシェリングのある意味での継承者だとは思いませんでした。自然哲学を論じていた前期のシェリングでは、有機体の個体化ということが言われていて、これ、対立する二つの力の緊張関係が、第三のものによって「力動的に包含」される(緊張が維持されたまま統合される?)という図式なのだといいますが、シモンドンにおいては、そうした緊張関係は、准安定的ななにかが生み出されることによって、緊張そのものが解決する、というふうに読める、ということなのですね。ユク・ホイは、シモンドンのモデルも、シェリングのモデルも、「二元論に抵抗する一方で、同時に完全な説明のためにどんな窮余の一策や還元主義にも頼るまいとする」と述べています。ということは、二元論に一元論的に立ち向かうというわけではないのかもしれません。

さらに芸術系の現象学を展開したマルディネ関連。マルディネのシェリング主義が、ドゥルーズとシェリングのミッシング・リンクをなしているかもしれない、と指摘されています。マルディネの言う「かたち」は、「志向-表象に先立ってそれ自体が「現れる」という動詞的に理解される現出的契機に」見出されるものだといいます。この現出をめぐる考え方が、「二元論に対して絶対的同一性を根源とする同一哲学の立場に親和的」だというのです。マルディネもまた、シェリングの申し子だということでしょうか。

悪の問題から、神の実在とその根底という二元論的なものを引き出し、実存と根底に先立つ絶対的な同一性として「無底」を定立しようというシェリング。それを継承するかのように、マルディネはクレーやセザンヌの絵画論に、実存・根底・無底を導き入れるということのようです。この論もまた、シェリングの理性の体系の構築を単純に挫折と見るのではなく、理性の外部性へと開かれる(継承者たちによる?)別様の解釈として捉えなおそうということなのですね。なかなか興味深い読み方・論点です。

エリュールのプロパガンダ論

久々に大部の紙の本を購入しました。ジャック・エリュール『プロパガンダ』(神田順子、河越宏一訳、春秋社、2025)です。技術哲学・技術批判で有名なエリュールが、その主著『技術社会』の後に、62年に刊行した著作ですね。まさに待望の邦訳というところ。
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同書で展開されるのは、広義のプロパガンダ(エリュールはいくつかの分類を示しています)をめぐる議論で、ただ扇情的なものだけを取り上げているのではありません。ここでのプロパガンダとは、小さな集団を、熟考をともなわないかたちで、なんらかの行動に走らせるための、伝達的な技術一般ということになるようです。その技術的な洗練が進むにつれて、集団がプロパガンダの道具として、プロパガンダに組み込まれたものとして成立するようにすらなる、というわけです。

これは面白い視点ですね。プロパガンダはあくまで技術であって(とはいえ技術だからこそ批判は必要だとされるわけですが)、イデオロギーやドクトリンのようなものと必ずしも不可分ではないということを示しています。たとえば民主主義ひとつとってみても、合理性にもとづく人間観や進歩概念などのイデオロギー、真理こそが最後には勝つといったドクトリンは、思考せずに行動を促す技術としてのプロパガンダとは別物であり、相容れない部分である、と指摘されています。

一方で今や(60年代当時)プロパガンダこそが、何が現実なのかを決めるファクターになっているとも言われます。その重要性は社会的に高まっているものの、プロパガンダはどこか全体主義的なものである以上、「プロパガンダの有効性と、人間の尊重を両立させることは不可能だと思われる」とエリュールは批判しています。

さらに衝撃的な一節は、プロパガンダの展開は「慢性的、恒常的な戦争状態を前提とする」がゆえに、「民主主義体制は、「好むと好まざると(volens nolens)」、戦争に引き込まれるのだ」というあたりでしょうか。うーむ、あな恐ろしや。エリュールのこの論、こんな感じでとってもアクチャルです。