「Humanities」カテゴリーアーカイブ

ストア派と公共

ゆっくり読み続けているエピクテトスの『語録』。やっと4巻に入りました。それにしても、3巻の末尾の数章(とりわけ24章から26章あたり)は、これまで以上に身につまされる思いがsしたかも。ストア派のこの書が、ある種の人生訓として読まれるのは、こういうところがあるからなのだなあ、と改めて納得できます。でも、人生訓というところで止まってしまうのにも、なんだか違和感を感じたりします。なにか哲学を考える上でもったいないような気も……(?)
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内面的な苦痛をもたらすような諸要素(情念とか)に対して、それらが(あるいはそれらの原因となっているものが)自分の意思ではままならぬことを直視することによって、半ば諦めというか、あるがままを受け止め、そこからポジティブな方向にそらして、内面の平静を得ようとする(3巻26章など)、というのがエピクテトスのストア派としての基本的立場ですが、一方で自分が制御できる事象については、これを計画的に実行せよと説き、自身の家の管理から始まって、公共への奉仕や行政への参加を積極的に推奨したりもします。その意味で、そうした公共性・計画性を根底から拒絶する犬儒派などに対しては、たいそう批判的だったりします(3巻22章)。

それってつまり、官僚志向的(?)ということになるのでしょうか。でもそうすると今度は、社会の首長に仕えることはどうあるべきか、という側面が気になるところです。エピクテトスはさしあたり、支配者としての神については何度も言及していますが、組織的な首長のあり方そのもの、あるいはそうした首長への服従、あるいは組織のありかたなどについては、3巻までではあまり触れていない印象なのです(うーん、ざっと読みで見落としているのでしょうか?あるいはこちらの記憶から漏れているとか?)。残りの部分と、これまでの振り返りで、探っていかないといけません(苦笑)。

「現代思想」と日常

昨年秋ごろに出て面白そうだと思った、福尾匠『置き配的』(講談社、2025)を、このところ読んでいました。『群像』連載の単行本化とのことで、多彩なトピックが飛び交う印象です。
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でも、哲学的エッセイだけのことはあって、日常的な話と現代思想系の概念や議論を往還し組み換えつつ、社会のなにがしかの側面について考察するというスタイルになっています。結果的にとてもおもしろい読み物になっていると思いましたが、そのスタイルが現時点で十全に成功しているかどうか微妙な部分もあり(この本自体も、どこか置き配的だという印象もありますね)、個人的には、さらなる洗練・深化に期待したいところです。

中身についても(特に個人的に注目したいところだけですけど)、ごくごく簡便にまとめておきましょう。コロナ以降すっかり定着したように思える置き配ですが、著者はこれを、時代を象徴する新たな現象と捉えています。ネットや批評の世界などのやり取りもまた、ポジショントーク的になり、言葉を「投下」するだけのものになってしまったと述べていますね。批評の内実が急速に失われていく様子が、置き配で共有される配達済み写真の不気味さにも通じている、といった話も出てきます。もはや郵便的(ちょっと懐かしい?)ですらない、置き配的なものになった言説の内実を、ではどうやって取り戻すか、というのがこの本の取り組む目標のようです。

バトラーのパフォーマティブ論や、ドゥルーズ&ガタリの領土の概念など、いろいろなものを駆使しながら各話(連載の)は進んでいきますが、でもやはりこの本が鋭さを見せるのは、ネット環境などの現況をめぐる概観や分析の部分でしょう。たとえば、「ナショナリズムや環境問題などの「大きな物語」が復古したかのように見える現状」について、著者は「つねに私以外の誰かの大きな物語に対する私の小ささ、弱さにおいてしか、われわれはわれわれの実存を安定させることができなくなっている」と喝破します。「誰かの表現を示威的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる」のだ、と。なるほど、なぜネットで安易にデカい話題が召喚されたりするのかについて、これはなかなか示唆的な文言です。

また、哲学領域で近年進行しているかに見える、「理論的なもの」への熱量の減衰についての議論も示唆的です。著者は「理論的な知はその内と外のスイッチを可能にする回転扉としてしか機能していない」としつつ、その上で、「理論が構築される現場には(中略)具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはず」、「理論に固有の具体性があるはず」だと述べています。

つまり、もとになっている具体性にまで降りていって、理論を見直すことを推奨しているようなのですね(このあたり、昨年大いに共感した『庭の話』に通じる部分もあります)。その可能性を開く事例として、ラトゥールのアクターネットワーク理論による諸理論の組み換えが挙げられています。オリゴプティコン(ごく限られた視野しか与えないもの、つまりなんらかのエージェントが、特定の文脈に置かれることで、広範囲のトレースを可能にするということですね)がもたらす新たな風景でもって、事象を捉え直すこと。これが、議論の内実を取り戻すための、解答の一端ということになる……のでしょうか。このあたり、もっと具体的な実践として考えてみたいところではありますね。

組み入れられた戦争

ピエール・クラストルの『暴力の考古学:未開社会における戦争』(毬藻充訳、平凡社、2026)を読了しました。これ、以前は現代企画室から出ていたものですね。
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扱っているテーマは、副題にあるように、未開社会において戦争というものがどう位置づけられているかです。戦争を攻撃的本能(狩猟に結びついた)の発露に還元しようとする見識(ルロワ・グーランなど)や、経済活動(貧困のなかで生き残るための)に結びつける解釈を、論理的に退け、次いで戦争を交易(交換)の延長上に位置づけるレヴィ=ストロースの議論が批判されています。そのあたりの批判は、とくに力を入れている感じです。

クラストル自身の立場はというと、未開社会の戦争は、あくまで防衛のためのものとして、社会の構成・存続に一役買っているというものです。未開社会は多数の共同体がそれぞれ分散する形になっていて、それぞれが相互に侵犯しないように配慮しているというのですね。共同体には、分化(分かれてほかの体制になっていくこと:他の社会への権力の移譲なども含まれます)に抵抗する保守主義が基本的にあり、社会を維持するために「敵」が必要とされるのだ、戦争は「永続」するものとして構造化されているのだ、と。

その意味で、未開社会は、国家としての統一などにも敵対し拒否するとされています。外的な法とか、服従とかを受け入れられないというのですが、現実問題として、いったん国家ができてしまうと、もうもとの社会には戻れず、圧倒的なかたちでそこへの服従が生じてしまいます。そのようなプロセスのなかで、未開社会がみずからに組み込んでいた戦争は、どのような扱いになっていくのでしょうか。さらに、国家もまたスケール感こそ違うものの、戦争をどこか構造的に内部に取り込んでいるようにも映ります。社会に組み込まれていた戦争は、骨抜きにならずに、国家の戦争に吸い上げられて存続していくのでしょうか。同書では触れられないそのあたりの問題を、どう考えればよいのかが、とても気になるところです。

ニヒリズムを超えていくために

少し前に、熊野純彦『サルトル:全世界を獲得するために』(講談社、2022)を読みました。サルトルの『存在と無』を中心とした解説本です。サルトルは学生のころに読んだきりで、結構忘れていましたが、少しだけ懐かしく(苦笑)思い出したりしました。が、しかし……。
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サルトルのわかりにくさは、一つには、その独特(当時はそう感じられました)の言い回しの妙のせいだと思われます。例えば、カフェで不在の人物を想起するような場面で、その人がいた過去と、いない現在が断絶していることを、サルトルは「切断面」とか呼んだりします。でも、切断面なんて言われると、逆にその主観的判断はどういう空間的位相(トポス)を考えていて、なにゆえに「面」だと言っているのかがわかりません。さらにその過去と現在の違いを、「時間の裂傷」などと言ったりもしますが、ではなぜそれは「傷」なのか。このあたりも漠然としていたように思います。

「存在の表面における無の煌めき」などの表現も同様です。外部に存在するもの(即自)を認識する主観が、外部にではなく存在する「自己」(つまり対自)をも同時に、かつ前提として、非定立的に認識していなければならないとしても、そのことを単純に「無」だとか「無の煌めき」だとか呼ぶのは、そもそもあまり意味をなさないのではないか、という疑問もあります。

また、そこから「対自に絡みついている無」を「対自の自由そのもの」とみなし(これもよくわからないのですが)、ゆえに「存在者をすべて無にできる」(存在者についての懐疑を徹底できる)とするあたりなどは、対自が含み持っている非定立の自己認識の話からはもはや逸れてしまっている印象しかないのですよね……。さらにその上で、その自由をもとに状況を、世界を選びとれと言われてもなあ……。やはりちょっとサルトルは個人的に合わない感じが濃厚です(苦笑)。

……そんなことを改めて解説本の読後感としてもったのですが(サルトルの著作を読んだあとも、似たようなモヤモヤが残ったのを思い出します)、この「無」についての話は、その後に江川隆男『哲学は何ではないのか:差異のエチカ』(ちくま新書、2025)を読んで、少しクリアになりました。これは小著ながら、とても刺激的な良書と感じられました。
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西洋哲学の全体は、これまで「同一性」を中心に形成されてきて、そちらを特権化し差異を劣ったものとみなしてきたとする著者は、同書で静かに、その転換を訴えています。同一性(実体)は事物の本質とされ、位階序列の上位をなし、二元論的・二項対立的を煽り、差異をなすものを貶め、排除してきたというわけです。差異とされるものを否定するニヒリズムの思考、ですね。これはプラトンのイデア論の図式です。ホワイトヘッドが言ったという、西洋哲学はプラトンの注解にすぎないという言葉が、何度か繰り返し引用されています。

しかし、一方でそうしたスタンスが、あまりにも多くの軋轢や社会問題を結実させている現実があり、ゆえに同一性中心の哲学を転換する途、別の道筋を探らなくてはならない、と同書は訴えます。それが差異を肯定する反・哲学の途だというわけです。

同一性を中心に考える場合、主観の認識対象としての実体が措定され、その周りに様態が、あるいは偶有が付加されるというかたちになります。サルトルが「無」と表現する対自あるいは対他なども、対象の二重性(個体と一般化された事物)と主観の二重性(主観そのものと他者の中にある「私」、つまりは共同主観性)にほかならず、総じてそれが差異を否定するニヒリズムであることに変わりありません。ここで重要なのは、むしろその「実体からその中心性を奪って、逆に実体を様態のまわりで回転させること」であると著者は言います。

著者の訴える差異の哲学は、ドゥルーズから採られた思考実践であり、ドゥルーズにより解釈されたスピノザ、ニーチェなどが系譜として挙げられます。ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」、その発展形としての属性の一義性(スピノザ)、(永劫)回帰の一義性(ニーチェ)。それらを通じ、さらにその先へと進むような思考様式を鍛え上げようというのがここでの企図なのですね。二元論・二重性が消尽していくような未来、「自然が作動する配列そのもの」、「超越論から並行論への転換」、まだ現れたことのない思考様式。ユートピア的?そうかもしれませんが、たとえかすかでも、希望の光はあってほしいものです。

情緒・情動・身体感覚的な近未来へ

青土社の『現代思想』は、このところ毎年のように、1月号で総覧的・展望的な特集を組んでいますが、2026年は「現代思想のフューチャー・デザイン」というタイトルで、人文・社会系の諸分野の「将来的な展望」を特集していますね。
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やや細分化されている現代の学問領域を反映するかのように、全体的にそれぞれ少し窮屈そうな世界観で議論が展開していく感じがしますが、それでも面白そうな話はいくつかあります。たとえば宗教学的な観点からの、将来の日本の宗教のあり方を予想した論考(岡本亮輔)。論理などではない、情緒にもとづく実践が、日本だけでなく、世界的にも、これからの宗教的な動向をつくっていくのではないか、と指摘されていて、なかなかに興味深いです。情緒はときに乗り越えがたいものである以上、組織体としての宗教が衰退しても、宗教的なもの自体は存続するだろう、という見立てですね。

家族はどうでしょうか。家族を制度の中心ととらえる感性も根強いですけれど、一方で、もはやそれはかっちりした一枚岩のものではなくなって、いろんな面で多様化し、従来的な価値観に照らすと、ほころびが出始めているように思います。収録の論考(永田夏来)には、「もはやそれは不動の単位ではなく、人々の関係編成を支えるインフラとして解体・再配置されつつある」との指摘があります。情緒というか、親密さそのものが複数化していると説いているわけですね。家族というものが、固定的単位というよりも、ゆるやかな関係の網の目のようになっていく未来。それは思いのほか近いものなのかもしれません。

デジタル化の流れの中で、視覚・聴覚に大きく遅れをとっているのが嗅覚だという指摘もありました(岩崎陽子)。嗅覚は「化学感覚であることに加え、身体経験、記憶、社会文化的文脈を束ねる総合的な知覚である故に、単純なデータ化や抽象化に抵抗する」といい、ゆえにそれは「現代科学の方法論が抱える限界を露呈」しているのだといいます。著者はさらに、これは単に技術だけの問題ではなく、「未来の人間理解を左右する分岐点」でもあろうだろう、と論じています。

高齢化社会の中で、アンガーコントロールの重要性が取り上げられることも多くなってきましたが、もうひとつ、嫉妬(エンヴィー)のコントロールもきわめて重要だとする論考もあります(源河亨)。嫉妬には固有の問題性があるといい、それは相手に対する正当性のない敵意を抱いてしまうことだといいます。そのため、ありもしない「相手の不正」をでっち上げてまで、敵意を正当化しようとする、というのですね。フェイクの義憤が事後的に練り上げられるというのは、なるほどなあと思います。

こうして並べてみると(もちろんほかにもいろいろな論点がありますが)、なにやら今後の近い将来において大きな問題圏を作りそうなのは、情緒・情動・身体感覚といった、とても身近で個人的・内密な領域かもしれない、と思えてきます。そうしたものは、現状では一元論的な記述でのアプローチしかなさそうに見えますが、なにかオルタナティブなアプローチの可能性というのはないのでしょうか(ガブリエル・タルドが説く、よりいっそう細やかな統計とか??)。そのあたりのことを、個人的にも、今年もまた引き続き考えていきたいと思う次第です。