変人奇人譚

就寝前本としてちびちび読んでいたクリストファー・ミラー『ピアニストは二度死ぬ』(石原未奈子訳、ブルース・インターアクションズ)を読了。サイモン・シルバーという架空の音楽家の作品集CDのライナーという体裁を取って、作品解説といいつつ、その音楽家の変人・奇人ぶりを、これでもかというふうに執拗に語っていくという小説。ライナーの体裁というのは結構早い段階で破綻するのだけれど(こんなライナーがあったらボツになること間違いない(笑))、そこから先は、そのシルバーなる人物がいかに常軌を逸しているかを追うことになり、結果的にそのライナーを記している「伝記作家」の複雑な思い(狂気?)が執拗に描かれるという、なかなかに手の込んだ作品だ。よく、暴露ものというか、実在の人物の細かいエピソードなどは、なにやらのぞき見興味みたいな下世話なモチベーションで読まれる、みたいに言われると思うけれど、こういうまったくのフィクションでついそういう奇態さに引き込まれる経験をすると、どうも変人・奇人の生涯についての誘因というのが、どこか別のところにあるようにも思えてくる。うーん、何なんですかね、この感覚。予測可能性を裏切られること自体の快楽か、はたまたそれに翻弄されてあたふたする側の滑稽さが面白いのか……。読後感として大きいのは、結局その「伝記作家」の狂気もまた絶大だということ。うーん、執拗さと狂気で貫かれた作品世界……。

復元と実演 〜古楽への雑感

昨日は毎年恒例のリュート発表会。なんだかリュート習いの一年の締めくくりと、新しい一年の幕開けという感じで、これがないと年が越せない、みたいな(そういえばちょうど旧暦の正月だっていうし)(笑)。今年はバロックリュートで、教本からタウセアナ(?)のプレリュード2曲と講習会でやったド・ヴィゼーのラ・モンフェルメイユ。ちゃんと弾ければ美しい曲。が、相変わらずコケまくり(いつものことか……)。ま、さらっと忘れて次に行こう(笑)。

打ち上げの宴会で出た話の一つに、復元か実演かという話題があった(前にも出たっけね)。古楽演奏ということで、ガット弦を張るなどのオーセンティシー追求という動きもあるわけだけれど、それと音楽的に意味のあるパフォーマンスとは、やはりどこか次元が違うことなのではないか、というわけだ。ま、両方のアプローチがあるわけで、本来は両者の往還が理想的なのだろうけれど、なんだか個人的には、先に取り上げた加藤信朗『アウグスティヌス「告白録」講義』に出てきた、哲学的アプローチ(分析的・分解的)とアウグスティヌスの全体的アプローチ(全体知)との違いや、「教説としての神学」と「探求としての神学」の差などにも通じるものがあるなあ、などと思ってしまった。そう、同書の興味深い点の一つは、アウグスティヌスのアプローチを東方的伝統の枠から理解を試みた点にあった……。

というわけで、この後者のホーリズム的アプローチはときに東洋的(東方的?)なものとして、空間的・水平的に位置づけられたりもするわけだけれど、当然、こういう(習い事のような)身体感覚が絡む領域に通底するという意味では、累積的・垂直的にも位置づけられる。西欧の学知のアプローチが、そうした身体感覚的なものの上に分析的なものを積み重ねているのは誰もが知るところだけれど(日本の伝統芸能などは、身体感覚的なものの上に、それを身体感覚の内発的な合理性みたいなものをさしずめ非分析的に積み上げる、という感じかしら)、古楽の復興なんて言い方がなされるのも、それが分析的・分割的アプローチから成り立っているという意味では、とても西欧的なものだという気がする。実際、日本の和楽器とか伝統音楽とか、「古楽の復興」みたいなアプローチで捉えようとはしないわけで(笑)。そんなことを考えると古楽系のいうオーセンティシー概念がなんとも狭苦しいものにも思えてきたり……。

写真は発表会出陣前の愛器(笑)。

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シャルパンティエのノエル

ちょっと季節的に一ヶ月ほどずれてしまうけれど(笑)、マルク・アントワーヌ・シャルパンティエのクリスマス・カンタータ集を購入し、このところ聴いている。”Noel” – M.A.Charpentier: Christmas Cantatas / Kay Johannsen, Ensemble 94, Solistenensemble Stimmkunstという一枚。なかなか端正で落ち着いたパフォーマンス。シャルパンティエはイタリアでカリッシミに師事したといい、その功績としてはイタリアで盛んだったオラトリオ形式をフランスに紹介したことにあるというのだけれど(ライナー)、17世紀のフランスでこれを受け継いだ者はいなかったのだそうで。曲そのものもいいけれど、なにやらそういう孤高な境遇とかにも惹かれるものがあるかも(苦笑)。

ジャケット絵はパリのルーヴルにあるシャルル・ポエルソンなる画家の『キリストの降誕』とのこと。こちらのルーヴルのページをどうぞ。シャルパンティエのほぼ同時代人らしいけれど、詳しいことがよくわからない。そういえば、シャルパンティエもその生涯は微妙にわかっていないとかいう話だったっけ?うーむ、謎が多いねえ。

ペトルス・ロンバルドゥスと書物史

以前『フーコーで学ぶスコラ哲学』を取り上げたことのあるフィリップ・W・ローズマン。この人のフィールドはペトルス・ロンバルドゥスなのだそうで、その有名な『命題集』の内容を一般向けに解説した『ペトルス・ロンバルドゥス』(“Peter Lombard”, Oxford Univ. Press, 2004)なんてのも出しているのだけれど、今度はさらにその注解の歴史を大まかに辿るという一冊が出ていた。『ある偉大な中世の書の物語–ペトルス・ロンバルドゥスの「命題集」』(“The Story of a Great Medieval Book – Peter Lombard’s Sentences”, Broadview Press, 2007)。12世紀から15世紀までの「要約本」や「注解」などを書物史の観点からまとめている。とりあえず前半の12世紀と13世紀のところを読んでみたのだけれど、なるほど、『命題集』は書物史的にもとても重要なのだそうで、同書そのものが、欄外の「脚注」の嚆矢をなしているのだという。また目次が付されているのも画期的なことだったようだ。『命題集』そのものにも、最初の版のほかに増補版があるようで(ロンバルドゥス本人が記したもの)、さらに、直後から出ていたという要約本から、逐語注解を経て13世紀の自由討論風の注解(ボナヴェントゥラやトマス・アクィナス)へといたる経緯を追うと、神学が修道院や司牧の関心から遊離し、学として確立していく過程が追えるということにもなるらしい。うーん、書物史もやはり面白いねえ。13世紀に神学の講義に『命題集』を使うようになった嚆矢として、ヘイルズのアレクサンダーが重要だというのも、個人的にちょっと押さえておきたいポイントかも(笑)。

断章8

Πᾶν τὸ γεννῶν τῇ οὐσίᾳ αὐτοῦ χεῖρον ἑαυτοῦ γεννᾷ, καὶ πᾶν τὸ γεννηθὲν φύσει πρὸς τὸ γεννῆσαν ἐπιστρέφει· τῶν δὲ γεννώντων τὰ μὲν οὐδ᾿ ὅλως ἐπιτρέφει πρὸς τὰ γεννηθέντα, τὰ δὲ καὶ πρὸς ἐκεῖνα ἐπιστρέφει καὶ πρὸς ἑαυτὰ, τὰ δὲ μὸνον ἐπεστραπται πρὸς τὰ γεννήματα εἰς ἑαυτὰ μὴ ἐπιστρέφοντα.

みずからの本質によって生み出すものはすべて、おのれに劣るものを生み出し、生み出されたものはすべて、その本性により、生み出したものへと向き直る。生み出すものには、生み出されたものへといっさい向き直らないものもあれば、そちらに向き直ったりみずからに向き直ったりするものもあり、生み出されたものにのみ向き直り、みずからには向き直らないものもある。