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フィクションと現実は……

(bib.deltographos.com 2024/04/28)

ジャン=マリー・シェフェールの『なぜフィクションか』(Pourquoi la fiction, Seuil, 1999)を見ているところです(ざっと3分の2)。少し前に邦訳も出ていますが、原書のkindle版も出ていたので、とりあえずそちらで。

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冒頭はとても面白いです。フィクション(本でも映画でもゲームでも)が隆盛する現代にあってもなお、西欧世界には、プラトンに端を発する、「フィクションへの恐れ」のようなものが執拗に存続している、その正体は難なのか……そんなことをめぐって話が進んでいきます。フィクションへの恐れとはつまり、その根底にあるミメーシス(模倣)の、人を巻き込み絡め取ってしまう伝播力への警戒感です。それに乗っかるかたちで、フィクションは現実との境界を突き破ってくるのではないか、圧倒的な現前の力でもって人を騙してしまうのではないか、と人(とくに西欧の)は恐れるというわけです。

著者のシェフェールは、しかしそれは問題を取り違えている、と指摘します。フィクション(文化的な作り物としての)は現実に闖入してはこない。そのあいだには大きな理論的飛躍がある。そもそもミメーシスには、楽しみのために想像力を用いるという、ポジティブな効果もあるではないか(アリストテレスがその点を評価している、と)……。ここから、「フィクションとは、ミメーシスとはそもそも何であるか」という問題が大きく取り上げられることになります。

シェフェールはこの問題に、いわば機能主義的な一元論で取り組んでいるように思われます。ミメーシスとはつまるところ、対象となる表象の認識にほかならず、対象が虚構か現実的なものかでの、機能的な違いなどない、と考えるのですね。もちろん対象が虚構か現実かでの区分もありえないくはないわけですが、もとが一元的であると捉えるなら、その区分はあくまでも事後的な、本質とは関係のない区分形式にすぎなくなります。そのようなスタンスから、心理学や文学理論などの様々な論者の主張が検証されていきます。形式分類論みたいになっていくので、このあたりは少し退屈な気もしますが……。

とはいえ、この機能主義的な一元論は、総じてとても強力です。現実と虚構の取り違えはそもそも原理的に起こりえないということになるからです。なるほど、文化的な作品世界なら、そのような取り違えは、実際に起こらないし、原理的にも起こりえないのでしょう。それは誰もがうっすら感じていることで、そこにあえて理論的な枠を設定してみせた、というのが同書の大きな功績なのかもしれません。

でも、今やフィクションと現実との境界は、また別の次元、別の社会的文脈で混交するような事態にもなっています。ここをどう考えるのか。そのあたり、一元論に突きつけられる新たな問題ということになるのかもしれません。

 

「小さなコミュニティ」論

(bib.deltographos.com 2024/04/12)

ローティ

NHKでやっている「100分de名著」シリーズは、番組は見たことがないのですが、テキストは何冊か手に入れて読んでいます。で、最近取り上げられていたのがリチャード・ローティの『偶然・アイロニー・連帯』。エッセンスが手際よくまとめられている感じで、個人的には好印象でした。

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同テキストの著者、朱喜哲氏のまとめによると、ローティが考える哲学は、絶対的真理や本質を求める営為ではなく、偶然性に寄り添うものでしかありえない、人は己自身の記述をつねに改訂していく可能性に開かれていなくてはならない、と説くものなのですね(そういえば、『訂正可能性の哲学』でも、ローティは言及されていました)。

そしてそのための契機として、小さなコミュニティ(連帯)による会話の継続性がとても重要になると説いているのですね。大きな権力や、固着した概念などに抵抗する上で、そのような小さなコミュニティこそが、大きな武器になるかもしれない。これがローティの説く実践だ、というわけです。いいですね、これ。「小さなコミュニティ」論は、これからとても重要になりそうな印象です。

このテキスト本(または番組)を受けてか、『偶然・アイロニー・連帯』(岩波書店)そのものも結構売れていると聞きますが、とても残念なのは、Kindle版が固定レイアウトだという点です。岩波書店さんはもうちょっと考えていただきたいですよね。月刊の『世界』も、昨年末からリニューアルして電子版も出ていますが、こちらも固定レイアウトなんですよね。ちょっとそれ、安易すぎませんか。ローティ本は、できれば文庫化して(分冊でもいいので)、普通に電子書籍を作っていただきたいです。

フォンタマーラ

これも「小さなコミュニティ」論に関連するかもしれません。kindle unlimitedで出ていたので、イニャツィオ・シローネの小説、『フォンタマーラ』(齋藤ゆかり訳、光文社古典新訳文庫)を読んでみました。

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シローネを読むのは初めてです。共産党員としてファシズム政権に追われたものの、スターリンのソ連を見て失望し批判するようになって、イタリアの共産党から除名されたという異色の経歴をもつ作家です。

で、この『フォンタマーラ』ですが、題名になっている村にくらす。自称「どん百姓」たちが織りなす群像劇です。町から突然やってきた行政官たちに蹂躙され、村の水源や土地すら奪われ、赤貧の中で暮らす「どん百姓」たち。それでも彼らは毒を吐き、呪詛をなげつけながら、必死に自分たちの土地で暮らそうとします。描かれるのは貧しい人々の哀しみですが、同時にそこには、なんとも言えないおかしみ、皮肉なども込められています。その活写がすばらしい。ただひたすら悲惨なのではなく、悲惨さのなかに人間讃歌があふれている……そんな感じの作品です。小さなコミュニティでの会話は、やがて大きなうねりへと転じていく、のでしょうか。そのプロセスの端緒を、描き出しているような印象を受けます。

 

ランシエールの美学

(bib.deltographos.com 2024/04/05)

アルチュセールの弟子筋にあたるジャック・ランシエールは、一時期よく取り上げられて、名前をよく聞いていた気がします。でも、その思想内容の核となる部分については知らないままでした。カイエ・デュ・シネマなどで映画評をやっていたのも知ってはいましたが、ちゃんと読んでみたことがありませんでした。で、昨年ですが、新作らしい『アートの旅』(Les voyages de l’art, Seuil, 2023)という一冊がKindleで読めることを知り、せっかくだからと早速見てみました。

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同書は6つの小さな論考(講演など)を集めたもののようです。ランシエールは、同書を通じて次のようなアートのパラドクスを読み解こうとしているように思えます。主に19世紀以降(18世紀末から)のアートが、それまで宗教や貴族身分への奉仕であったのをやめ、アートそれ自体としての完成形を目指そうとするとき、そのアートにもともと内包されている根源的な不完全さ(アート以外の何か、あるいは完全・不完全の緊張関係、あるいは芸術がはらむ人間そのものの疎外など)を、むしろ指し示してしまう、というパラドクスです。

アートは宗教などの他のものに仕えているときですら、アートそれ自体の完成をめざす動きを伴うものだったはずなのですが、いざそうした外的なしがらみがなくなってみると、むしろアートの中にあった製作者の疎外の力学であるとか、様式への極端な拘泥であるとか、何らかの別筋の社会的なものへの奉仕にからめとられてしまうこととか、様々な縛りの要素がむき出しに出てくるようになってしまった、というわけですね。けれどもそれらの諸要素は、結局はアートそのものがもとから、「構成的に」含んでいたものであり、それらのしがらみからは容易に逃れられず、アートは、それが目指す自由との分裂関係・緊張関係に常におかれてしまうのだ、と。

そうした分断というか分裂状態を、ランシエールはヘーゲルやカントの美学、音楽や建築のアプローチ、さらに共産主義系の造形アートや政治的なものとの関連などを取り上げながら、それぞれの領域でまずは概論として示し、次いで個別の実例などを紹介しつつ描き出してみせようとします。俯瞰から個別へ、ということでしょうか。この、分断の線を引きつつ、その緊張関係の力学を語ろうとするやり方には、なにかどこかなつかしい感じすら漂います。ネットの時代になって、今こういう仕事をする人って、もうあまりいないかも、という気がします。

 

身につまされる話

(bib.deltographos.com 2024/03/20)

保身的な「同調」

少し前ですが、キャス・サンスティーン『同調圧力』(永井大輔・高山裕二訳、白水社、2023)を、ざっと読んでみました。

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デモクラシーのいわゆる陥穽としての同調現象。実験心理学の成果などにもとづき、それらを敷衍しながら、現代アメリカの政治的状況について論じています。個人的には、実験心理学の部分は興味深いものの、アメリカの政治批判はちょっと飛ばしすぎの嫌いもあるかな、と感じました。ま、それはともかく。

とりあげられている主要テーマは、「同調」「カスケード」「極性化」の3つです。最初の同調のところで、すでにして身につまされる感じがします。なぜ人は同調しようとするのか。一つには、相手から「嫌われたくないから」というのがある、というのですね。小さなコミュニティなどにおいても、これは現象として生じてしまいます。要は、孤立しないため、保身のために、相手についつい合わせてしまう、と。そういうところ、往々にしてあるなあ、と思うのです。

でも、一度そうしてしまうと、なかなか後からの軌道修正はできなくなってしまいます。そこから、増幅現象であるカスケードや極性化(極端化)へと至る道のりは、そう長くはなさそうです。後のことを考えると、同調はある種の一般的な悪癖として、無効化するに越したことはなさそうですが、それが保身を根っこにもっている場合、簡単な話ではなさそうです。

このことから、書かれるべきはむしろ「保身論」ではないか、という気もしてきます。

保身としての謝罪も

もう一つ、古田徹也『謝罪論』(柏書房、2023)もちらちらと見ているところです(これは現時点でkindle本がありません)。オースティンの言語行為論を批判するところから始まるのが、なかなか刺激的です。

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基本的には、謝罪という括りで語られる行為について、それが含意する意味の広がりを、分類し体系立ったかたちで描き出そうという本のようです。

で、これも身につまされます。今度は、同書が正面切って取り上げていない(?)、社会にはびこる嘘としての謝罪、謝罪のふりをした偽の謝罪について、思いがめぐってくるからです。

政治家や官僚は言うにおよばず、いろいろなところで不誠実な謝罪の「ふり」が繰り返されているわけですが、そういうものがどこか表面的に受け入れられて、忘れられていく。この現象は何なのかが、とても気になります。ここでもまた、問われるのは「保身」ということのような気がしますね。とするなら、やはり書かれるべきはむしろ「保身論」ではないか、と思うのです。

 

訂正の可能性、転喩の可能性

(bib.deltographos.com 2024/03/12)

アクロバティックな読み

このところ、東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン、2023)を読んでいます。とりあえず前半の第一部。家族概念を、従来の組織概念に膨らませている(家族の外には、別の意味での「家族」しかない……)ことと、その組織のルールが遡及的に変更されながら、それでいて一貫性を保っている(それもまた遡及的にしか見いだされない……)ことの指摘が、大きなポイントになっています。

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議論の全体を支えているのは、まずはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、クリプキの懐疑論です。それらが、ここではなんと、組織論(共同体論)に絡めるかたちで読み返されています。これには「おおっ」となりますね。このような読み方は凡百の論者にはできない種類のものでしょう。批評を長くやってきた著者の、目のつけどころの違いというか。

著者はさらに、ローティーの連帯論や、アーレントの公共性の議論なども接合していきます。これらを通じて、共同体が維持されるには変化がなくてはいけない、共同体が変化するには一貫性がなければならない、といった論点が強調されていきます。

それにしてもこの読み方、著者も触れていますが、おそらく大学の哲学プロバーの研究者などからは評判が悪いでしょう。「ウィトゲンシュタインの議論はそんなことを示唆していない」とか「クリプキの意図はそこにはない」とかなんとか。思うにそれは、根本的な研究意図の方向性が違うからでしょう。専門の研究者は元のテキストに込められた意図へと向かうのに対して、同書はそのテキストをジャンピングボードとして、そこからの飛翔を求めている、という感じですね。

メタレプシス

このような、少し違った別筋の読み方、アクロバティックな読み方は、ある種の直感的なものなのかもしれませんが、では、なんらかの訓練によってたどり着けないものなのか、という疑問も浮かびます。で、そのためのヒントとして真っ先に浮かんだのが、ジェラール・ジュネットによる『メタレプシス』(転喩)です。2009年の本ですが、一昨年、邦訳も出ました(久保昭博訳、人文書院、2022)。

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メタレスプシスというのは、狭義では「先行する事象を後続する事象で表す」あるいは「後続する事象を先行する事象で表す」という意味ですが、ジュネットが論じているのはむしろ広義の、「比喩をさらに換喩的に置き換える」(換喩的転義)、「すでに比喩として用いられている言葉を、さらに比喩的に言い換える」(多段転義)のほうです。

ジュネットはそれを、単なる文彩としてではなく、虚構を打ち立てるための仕掛けとして取り上げ、小説、映画、演劇などの多彩な表現芸術において、転喩がいかにそうした表現世界・虚構世界を作り上げているかを示していきます。たとえば一人称の小説形式において、著者が語り手となり、場合によっては登場人物の一人になるものなども、ジュネットによれば「転喩的操作」だとされます。脱線ですが、役者のニコラス・ケイジが作中で、登場人物のニコラス・ケイジを演じる『マッシブ・タレント』なんて映画など、その最たるものかもしれません。

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話を戻すなら、『訂正可能性の哲学』でのテキストの読み方も、そのような転喩的操作を思わせます。もちろんここでは、人称ではなくて、より一般的な言葉の転義のほうの操作です。家族という言葉が、小さな単位の家族から、より大きなものへと拡大されるように、参照するテキストで使われている言葉も、もとの意味からあえて転義的に受け止めることで、読みの可能性(の地平)をさらに拡大させることができるかもしれない、ということです。考えてみると、そうした操作は実は本来、歴代の哲学者が行ってきた、とても哲学的な操作だと思うのですよね。

専門的研究の方向性はそのままに、一方で、それとは別筋のそうした哲学的営為としての操作も、もっとなされていい、もっとなされるべきかもしれない、との思いが強くなりました。