科学的実在論

表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)文庫化されたイアン・ハッキング『表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)』(渡辺博訳)を読んでみた。科学史・科学哲学的な実在論をめぐる考察。副題に「科学哲学入門」とあるけれど、著者の該博さにいわば「翻弄される」ためか、それほど取っ掛かりがよいわけではない(とくに第一部)。どちらかといえば多少とも知識ある人向けの総論という感じか。科学が扱うものが実在的なものかそれともあくまで合理性の産物なのかという議論は長い歴史に彩られているわけだけれど、そのときどきの論争に関わってきた様々な教義をたどるのが「表現」と題された第一部。近・現代が中心だが、それらの議論にはどこか微妙な錯綜感もあり(クーン、ファイヤーアーベント、パトナムあたりは押さえておかないと話が見えてこないかも)、ときおり差し挟まれるハッキング本人の見解すら見失いやすい気がする。その見解というのは、理論に関する実在論と対象に関する実在論を分けて考えるというもの。前者については実在論を斥け、後者については実在論を擁護するというのが基本スタンスのようで、いずれにしても実在論で問題になるのは言葉や思考による表現以上に、世界への介入に関わることだと述べている(p.135)。ここから第二部の「介入」が導かれるわけなのだけれど、俄然面白くなるのはこの第二部。実験や観察という行為から、実在論の手触りを探っていくのだけれど、その手法は以前に見た『確率の出現』などにも通じるアプローチ。たとえばこんな話。最初は疑義も差し挟まれた「電子」は、いつから実在を疑われなくなったのか。ハッキングはこう答える。それが何か他のものを研究するのに用いられるようになったときだ、と(p.518)。仮説や推論上のものから脱するには、それが操作の対象にならなくてはならない(p.500)のだというわけだ。おお、これは慧眼。もしかすると、フィクショナルな非在の対象の哲学的考察にも応用できそう、などと妄想も膨らむ(笑)。

アルヴォ・ペルトにハマる

ペルト:フラトレス(兄弟)/フェスティーナ・レンテ/スンマフランスあたりだと夏至は音楽祭なんかをやったりするので、こちらもそれにあやかって、少し遅ればせだが今日は久々の音楽ネタ。個人的にこのところハマっているのがアルヴォ・ペルト(1935〜、エストニアの現代作曲家)。これがなかなか味わい深い。基本的には同一音型の反復を多用するミニマル・ミュージックなのだが、バロックもののような音型の多用とか、対位法的な作り方、落ち着いたテンポなどなど、どこか懐かしい包容力のある音楽という感じがする。宗教曲はもちろん、それに限らず全体的に、どこかコズミックなイメージを喚起する。というわけで、CDもいくつか集中的に買ってみた。たとえば室内楽『ペルト:フラトレス(兄弟)/フェスティーナ・レンテ/スンマ』(8.553750)。古楽アンサンブル用の楽曲ながら、みずからいろいろな編成用にアレンジしているのだそうで、ナクソスのCDでは77年のオリジナル(管楽八重奏と打楽器のための)から92年版(ヴァイオリンと弦楽、打楽器のための)までが入っている。さらに78年の「スンマ」や88年の「フェスティナ・レンテ」も収録されている。

Part: Tintinnabuliペルトは70年代以降の自作の様式をティンティナブリと呼んでいるのだそうだが、ちょうどタリス・スコラーズが新譜『ティンティナブリ(Part: Tintinnabuli)』(CDGIM 049)でペルトを取り上げている。声楽でもそのミニマル感は残っているし、さらにいっそうコズミックな響きを連想させる。今年の「ラ・フォル・ジュルネ」でも演目として取り上げられていた82年の『ヨハネ受難曲(Passio Domini Nostri Jesu Christi Secundum Joannem)』(8.555860)も同様に秀逸。こちらはトヌス・ペルグリヌスによる演奏。そして極めつけの『鏡の中の鏡‾ペルト作品集(SACD)(Arvo Part:Spiegel im Spiegel)』(8847)。1978年の作品で、このSACDではヴァイオリン&ピアノ、ヴィオラ&ピアノ、チェロ&ピアノの3バージョンが収録されている。美しい旋律の繰り返しが、どちらが主旋律でどちらが伴奏なのか判然としないまま、微妙に交錯したまま並走していく。なんとも絶妙(NHK FMの「きらクラ!」でも昨年何度か取り上げられていた)。YouTubeでは、田舎の雪景色を走る列車の車窓の映像と合わせたもの(下参照)とかが出ていたりする。これもいいけれど、個人的にはやはり新緑のころ、あるいは晩夏ごろの田舎の山道を走るバスの車窓の眺めへのBGMにしてみたい、と思ったり(笑)。

Passio Domini Nostri Jesu Christi Secundum Joannem

鏡の中の鏡‾ペルト作品集(SACD)(Arvo Part:Spiegel im Spiegel)

スコトゥスの「似像」論

L'image (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)春先くらいに、実在論的表象主義の可能性の話を取り上げたけれど、なにかそれに関連するものがないかしらと、スコトゥスの「イメージ論」を抜粋したという仏訳本を見てみたのだけれど(Duns Scot, L’image (Bibliotheque Des Textes Philosophiques), trad. Gérard Sondag, Librairie Philosophique J. Vrin, 1993)、残念ながらそういうものではなかった(苦笑)。これはむしろスペキエス(可知的形象)論の部分を抜き出したもの。正確には『オルディナティオ』第一巻、第三区分、第三部、問題一から四という構成。前に取り上げたのは代示(というか仮象)の話で、主な出典は『自由討論集』第九巻。そちらが収録されていないかと思ったのだけれど、空振り。でもまあ、久々にスコトゥスのスペキエス論を見直すのも悪くはない。スコトゥスは基本的にスペキエスを認める立場。魂の中の知的部分が主たる原因となって知解は生じるとされるけれど、そうした知解能力を超える対象(至福の対象、すなわち神)にあってはそちらが主たる原因となる。これが大きな思考の枠組みになっている。これに、たとえば問題四で扱われるような、三位一体の「似像」としての魂(記憶、知性、意志)といったイメージ論が連なる。こうしたあたりは最初に押さえるべき、またときおり見直すべき基本だったりもする……。

眼についての様々な議論(中世盛期)

ジョイ・ホーキンズ「眼の保護になるもの:中世イングランドにおける視覚と健康」(Joy Hawkins, Sights for sore eyes: Vision and Health in Medieval England, On Light, eds. K. P. Clarke and S. Baccianti, 2014)という論考を見てみた。中世(盛期)における「視覚」についての様々な議論を俯瞰してみせてくれる、なかなかためになる一篇。というわけで早速メモ。

視覚についての伝統的な説明には、アリストテレスの受動説(物体が放出する光線を眼が受け取る)とガレノスの能動説(眼からビームのようなものが発射され、それが物体に反射し戻ってくるときに像を写し取る)の二つがあったわけだけれど、とくにガレノスの唱えるビーム説(ビームではなく視覚的精気なのだけれど)は、眼が受け取る像は身体の均衡を良いほうにも悪いほうにも変化させうるという帰結が導かれ、中世盛期には巷の一般医などに広く知られるようになっていたという。美しいものを見れば心身も健康になっていき、そうでないものを見れば悪くなっていく、というわけだ。で、そうした発想は、たとえば「キラキラと輝く宝石など貴重な石を見ることで心身の健康が保たれる」という教説を通じて、パワーストーンの考え方にも繋がっていくらしい。バルトロメウス・アングリクス(13世紀)などがまさにそうで、自著の百科全書『事物の諸属性について』では、セビリアのイシドルスやディオスコリデスを典拠に、宝石の治療上の作用をまとめていたりする。眼にとっての石の効用については、ほかにもペトルス・ヒスパヌスやチョーサーなどが言及されている。

さらにそうしたケアの話として、環境そのものに眼に優しい色を配置する話も取り上げられている。緑が眼に優しいといった説はアルベルトゥス・マグヌスやペトルス・ヒスパヌスにもあるほか、遡ってビンゲンのヒルデガルトにも見出されるという。続いて同論考は、とくに聖職者において加齢による視力の低下が深刻な問題だったこと、またそれに関連した眼鏡の使用の略史などにも触れている。そして次に、眼を見ることで相手の健康状態や魂の状態がわかるといった話へと進んでいく。脳の中にある動物精気に近い器官として、眼は相手の魂および精気の状態を雄弁に物語るというわけだ。話はさらに治療の方法(温水、ハーブ水などなど)にも及んでいる。

『事物の諸属性について』の15盛期の写本の挿絵。著者バルトロメウスの人生が並存的に描かれている。
『事物の諸属性について』の15盛期の写本の挿絵。著者バルトロメウスの人生が並存的に描かれている。

中世の弁神論的限界?

「キリスト教の神は無限の愛であるとされるのに、一方では地獄において劫罰を科す。これって矛盾じゃないの?」。こういう疑問、キリスト教に触れれば誰でも一度くらいは思うんじゃないだろうか。あるいは、人間の罪に対して罰があまりに重すぎることにならないか、とか。でも、するとそこで、神の無限の思惟は人間には到底推測できないのだとの原則でもって、なにやら煙に巻かれてしまったりもする。それでは神秘主義というか、ある種の思考停止状態でしかないように思えるのだけれど、そのあたりに甘んじず、矛盾なら矛盾としてちゃんと検証しようという論考があってもいい。というか、あった(笑)。ケリー・ジェイムズ・クラーク「神は偉大、神は善:中世の神的な善の概念と、地獄の問題」(Kelly James Clark, God is Great, God is Good: Medieval Conceptions of Divine Goodness and the Problem of Hell, Religious Studies 37, 2001)(PDFはこちら)。いちおう中世の議論が取り上げられているのだけれど、具体的にはアウグスティヌスとトマス・アクィナスのみ。このあたりがちょっと寂しいところではある。でも面白いのは、この両者の議論(とくにトマス)をもとに、神の善性について、偉大さ(被造物を創造した点において)としての善と、ペアレンタル(被造物を庇護するという点において)な善という二系列があるとした上で、それらの善と地獄の罰との両立可能性があるかどうかを改めて検証しているところ。

結論から言うと、上の二系列の善と地獄の劫罰とからなるトリレンマはやはりどうあっても解消しきれない。まあ、わかりきった結論ではあるけれど(苦笑)。でもそれにいたる途中の話はいろいろと参考になるかもしれない。たとえば処罰観の変遷。アウグスティヌスは(後のトマスもだが)、結局存在することは非在であるよりも善なのだから、地獄に落とされた者たちも存続させることが善なのだと言う(けれども論文著者が言うように、当人からすれば永劫の罰に苛まれるよりも消滅を望むだろうという視点は、この議論にはない)。これが中世になると、処罰と罪のバランスという観点から、永劫の罰は永遠の神に対する侵害に相応しいものなのだとされる(再び論文著者が言うように、無限の神が有限の人間に侵害されることはありえない、という視点はこの議論にはない)。さらにダンテの地獄観から着想されたエレノア・スタンプ(現代の研究者だ)の解釈も紹介されている。地獄の人々は、それぞれの罪に対応する限定的な善に拘泥しつつ永遠に存在することを選択したと考えられ、これを神が許したとするならそれも善だと言えなくもない、というわけだが、論文著者はこれにも、非在のほうが望ましい状況もありうるなどの批判を展開してみせる(詳細は割愛)。

上の神秘主義的な回答も、そうしたトリレンマへの一つの対応ではあるのだろう。そのあたりは中世(盛期)の弁神論の限界をなしているのかもしれない(?)。でもやはり考えてみたいのは、トマスだけが中世思想ではないのは当然であるし、上の二系列以外に神の善性の考え方というのはないのかしら、というあたりか。