コンベンショナルな世界?

外出時などの空き時間読書ということで飛び飛びに読んでいた松本章男『道元の和歌』(中公新書、2005)。体裁としては、道元が詠んだ和歌を、その生涯のエピソードや歴史的背景、想定される道元の心象風景から解説するという、ある意味とてもオーソドックスな入門書。読み始めると、「こういうのを読むと和歌も作ってみたくなるなあ」なんて思ったりもしたのだが……(そう思うのはそれなりに歳食ったからかしら)(苦笑)。道元の和歌、一見すると意外に素朴な自然を詠んでいるように見え、逆にその思想的な先鋭性とどこか相容れない感じが次第に強くなってくる(道元の仏教的世界観での自然は、すべからく流れとしてある、みたいな話じゃなったっけ?)。で、同書の解説を追っていくと、徐々にそこからある種の技巧の体系という側面が浮かび上がってくる。あたかも一切がコンベンションの世界であるかのように……。

たとえば「都にはもみぢしぬらん奥山は昨夜も今朝もあられ降りけり」という句の解説には、都のもみじから奥山を思うという趣向の古い神遊びの歌や藤原俊成の句が紹介され、道元は「古来の歌の着眼点をいわば倒置しているところが新しい」(p.80)と記されていたりする。「冬草も見えぬ雪野のしらさぎはおのが姿に見を隠しつつ」という句では、中国の禅僧が夜を徹して雪の中で達磨を礼拝したという話を絡めて解説している。この句は垂訓ではないかというわけだ。それぞれの句がどれもこんな感じだとすると、表面的な詩句を指すのはもはや自然物ではなく、かなり複雑な参照体系ということになりそうだ。なるほどインターテキストって奴ですな。うわー、これもまた参照元を知らなければ何もわからないという世界かも(苦笑)。安易に和歌を作ろうなんて思ってはいかんかもね、と反省する。