主体概念の拡張……

村上靖彦『傷と再生の現象学』(青土社、2011)を読んでいるところ。臨床哲学の可能性を見事に示している一冊だ。というわけで、ちょっとメモしておこう。個人的にとりわけ興味を惹かれたのは、第4章「介護の行為論」というところ。題材となっているのは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気の介護をめぐる記録。著者はそこから、西欧思想史的なものとは別の主体概念・行為論の可能性を探っている。重度のALS患者(まぶたすら動かせなくなるという)の場合、生活のすべてが介護者や関係者を介したものになるのだけれど、そこから単に共依存にとどまらない身体感覚のシンクロが生じ、介護者や支援者の身体運動がそのまま患者の「身体」になるような状況が生まれるのだという。患者すらもがその介護を受け入れて、その渾然一体となった状況で社会と関わることができるようになれば、それは一つの「自立」であり、そこに居ることだけですでにして「行為」をなし、患者と介護者たちはあたかもチームとしての主体をなすかのようになるのだ、と。

ALS患者のその状態は「行為の本質が身体運動や言語表現ちが何か別ものであることを示すことになる」(p.105)というわけだが、もちろんその段階はあくまで最終的な到達点だろうし、そこにいたる介護者と患者の諸関係の紆余曲折は壮絶なものであるはずで、個人的にはその最終的な風景よりもむしろ、衝突と断念とが繰り返される途中経過のほうが気になる(それは個人的に自分が介護の初心者になったからかしら?)。つまり、接合の可能性をもたらすものは何なのか、というあたりの話なのだけれど、これはちょっと考えてみたいところだ。また、章末に「神という現象の発生についての説明を一つ」(p.114)示しているのだけれど、これも気になる。命令していた者が命令しなくなって、命令を受ける側が命令を酌んで行為を完遂するようになること(他律の自律化)が一種の神格化だというのはわかるものの、それは「共同体の創設と維持を保証する審級としての神」(p.115)とはまだ遠く隔たっている感が強いような……。その隔たりの感覚についても(倫理観と宗教という感じ?それはどう架橋されうるものなのか、そもそも架橋しうるのかとか……)吟味してみたいところ。これは祈りの現象学にも通じる部分。