1270年ごろの形相の複数性議論

再びヴェベール本からメモ(第一部のセクションBの初め)。1250年以降、心身二元論はゆるやかに新たな展開を迎えるようになる。アヴィセンナの議論を取り入れて実体的形相としての魂を論じるオーベルニュのギヨームや、二元論を貫きつつ身体との結びつきを議論するラ・ロシェルのジャンあたりから、形相の複数性の問題へと議論がシフトしていく萌芽が見られるらしいのだけれど、ボナヴェントゥラあたりになると、ミクロコスモスとしての人体の考え方などもあって、いよいよ身体にも一定の実体性が認められるようになる。また一方では、やはりボナヴェントゥラだけれど、非物質的とされる魂にも質料的なもの(霊的な質料)があるといった議論も出てくる。とはいえまだそれは従来の心身二元論の枠組み内での議論だった、と著者は捉えている。……。

心身二元論がより細やかな実体的形相の複数性の概念に置き換わり、一定の定着を見るのは1270年ごろだという。人間の実体的形相は魂のみなのか、魂と肉体と二つあるのか、魂は複数の実体から成るのかといった問題圏が出来上がっていくのだけれど、とりわけそれに貢献したのはボナヴェントゥラの弟子筋の論者たち(バックフィールドのアダム、リチャード・ルフスなど)。さらにその議論の背景をなすものとして、「復活後のキリストは<人間>であったのか」(要は「埋葬された身体は誰のものか」)という12世紀来の神学問題があった。アウグスティヌス主義を抱く人々は、身体もまたキリストに属するとして、魂と身体の二つの実体的形相を認める立場を取る。で、ここに、霊的な質料というアヴィチェブロン由来の考え方や、物体性の形相というアヴィセンナ由来の考え方が結びつき、その立場は理論的にも強化されていく。著者はゲントのヘンリクスやジョン・ペッカムをそうした議論の代表として取り上げている。この形相の複数性義論に関しては、ヘンリクスが関わったタンピエの禁令というよりは、ペッカムが大きく関わった1277-1284年のオックスフォードの禁令のほうが重要そうだ(ちなみにCiNiiに、坂口昂吉「オクスフォードにおけるアリストテレス禁令について」(史学 34(1), 91-110, 1961-07、慶應義塾大学)という論考があって参考になる)。で、同書はこの後、単一形相論者(アルベルトゥスからトマス)の議論と、単一論・複数論の対立の話に向かう模様。