タンピエの禁令前夜

エドゥアール=アンリ・ヴェベール『13世紀における人格』(Edouard-Henri Wéber, La personne humaine au XIIIe siècle, Vrin, 1991)を入手し読み始める。予想とはやや違って、これは1277年のタンピエの禁令(アヴェロエス思想の追随者などを糾弾し、パリ大学などでのアリストテレス講義を禁じた教会側の禁令)が引き起こしたある種の知的分裂を、当時の人間観(魂論や知性論など)を軸に描き出そうという一冊らしい。序文ではそのタンピエの禁令と、それに前後するアリストテレス思想の受容、禁令に至る動きなどが概観される。禁令に至る動きというのは大まかには次のような流れ。まず1210年にパリ司教会議がディナンのダヴィドのいた学芸部に対して、アリストテレスの『自然学』関係の講義を禁じ、それに呼応する形で1215年には枢機卿カーソンのロバートがカリキュラム編成を論理学だけで固め自然学を排除する。ダヴィドの場合がそうだったように、12世紀以降に刷新されたアリストテレス文献の受容において、決定的な役割を果たしたのは医学だったといい、自然学はまさしくその基礎とされ、その新しい自然観が問題とされたらしい。1210年の禁止はその後1231年ごろまでにだいぶ形骸化し、1240年代にはその新しいアリストテレス文献が定期的に講じられるようになり(ロジャー・ベーコンなど)、1255年にはパリ大学学芸部がカリキュラムを正式に変えて、アリストテレスの翻訳のほぼすべてを取り入れる方向に舵を切る。1259年にはヴァランシエンヌで開かれた説教修道会(ドミニコ会)の総会にて、アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスを含む5人の委員が、哲学研究を違反行為とする旧来の決定を廃し、アラビア語の学校をスペインに開設するほか、哲学文献の研究を必要に応じて開設することなどを決定した。この後に、いよいよ保守系のパリ司教タンピエほかによる、いわば反動がやって来る……。

タンピエの禁令については先のブーデ本でも占い・魔術がらみで触れていて(禁令はそういったものも糾弾している)、その禁令の真の位置づけというのは研究者の間でも揺れているらしいことが指摘されている。禁令作成におけるタンピエ自身の関与についても、案外大きくはないのではないかという話もあるそうな。うーむ、この禁令は中身を少し詳しく見ておく必要がありそうだ。とりあえずはロラン・イセットの研究(禁令の各条の出典特定を行った重要文献)を眺めないとね。もちろん目下のヴェベール本も面白い部分があればメモに書きだすことにしよう。