トマス・アクィナスの真理論が「実在」をもとにしていることはどこかで読んだ気がするのだけれど、不在の事物、存在しない事物についての真偽問題などはどうなっていたっけな、と思い、少し前に確認しようと思ったものの、その後忘れていた(苦笑)。で、たまたま、まさしくそういう論考に出会う。グロリア・ワッサーマン「非在のものの真に関するトマス・アクィナスの論」(Gloria Wasserman, Thomas Aquinas on Truths about Nonbeings, Proceedings of the American Catholic Philosophical Association 80, 2006)。トマスの場合、知性にとっての真とは、事物の実在に結びついている。命題が知性にとって真であるのは、その項が実在の事物を指している場合だというわけだ。けれども非在のものを扱った命題が真であるという場合もある。その場合の命題が真であることは何によって担保されるのか。これをトマスの『真理について』を読み解くことで解決しようというもの。それによると、非在のものを、存在が否定された場合や、なんらかの欠如を伴った存在の場合と定義づけることによって、トマスはそれがやはり当の事物の実在(否定されない、欠如のない)を前提としていることから、その真偽は当の事物の実在によって規定される、と考えている。
前回のエントリで、トマスの実利主義をクローズアップした論考(というか発表用の原稿)を取り上げたけれど、今回も少し関連してトマスについてのより神学プロパーな論考を見てみた。ジョセフ・トラビック「アクィナスは『万人救済』を望むことができるか」(Joseph G. Trabbic, Can Aquinas Hope ‘That All Men Be Saved’? The Heythrop Journal, 2011)というもの。まずスイスのハンス・ウルス・フォン・バルタザールという神学者による、トマスの万人救済への望みの解釈が示されている。それによれば、たとえばアウグスティヌスにおいては救済の望みはあくまで本人志向なのに対して、トマスは始めて他者の救済への望みを示し、キリスト教思想に重大なシフトを刻んだのだとされるという。これに対して同論考の著者は、トマスの諸テキストを再検討することによって、それとは違う結論を導こうとしている。つまり、トマスには確かに万人の救済の望みを抱きうると(さらにはそう望むことはキリスト者の義務であるとまで)解せる文章があるものの、一方で救済予定説・永罰説についての文章もあり、これが他者(つまりは万人)の救済の望みと齟齬をきたすことになるということ。救済予定説・永罰説については、ダマスクスのヨハンネスから継承したという「神の事前的意志と事後的意志」の区別(神はあらゆる者に事前に善への性向をもたしているが、特定個人は重罪者としての性向をもつことがあり、それを事後的意志として裁くことができるというもの)を持ち出したりもしているというが、それすら上の齟齬を解消するには十分ではないとし、むしろトマスが言うところの「万人」つまり「すべての者」の「すべて」が、永罰の対象者などを含まない非・一般概念であった可能性を示唆している。うーむ、確かにトマスの実利的なスタンスからすれば、そういった解釈もありうるかもしれないとは思えるけれど、それはテキストベースで検証されなくてはならないので、さしあたり判断を保留しておこう。同論考の著者はさらに、永罰論をめぐってもさらなる議論が必要だと末尾で述べている。
キリスト教の伝統的な教えとして広く流布しているものの一つに、「汝の敵を愛せ」というのがある。けれどもこれはそう簡単なことではないように見える。これについて、トマス・アクィナスの応答を紹介した論考を見かけたので、取り上げておくことにしよう。ベレク・キナ・スミス「敵は友になりうるか?トマス的回答」(Berek Qinah Simith, Can an Enemy be a Friend? A Thomastic Reply, Patristics, Medieval, and Renaissance Conference, Villanova University, October 25, 2014)。これによると、A.C.グレイリングという英国の哲学者が近年の著作でその問題を扱っていて、敵を愛するという命題が結局は詭弁にしかならないことを示してみせたのだという。これを受ける形で、同論考はペトルス・ロンバルドゥスとトマス・アクィナスの応答を取り上げて再考している。ロンバルドゥスの議論は、人間が人間であるところの本性と、悪しきものとなる悪意(罪)との区別をもとに、「罪を憎んで人を憎まず」という議論に始終しているらしい。だがこれでは、いずれにしても同じ相手が愛と憎しみを被ることになってしまい、あまり実践的ではない。で、トマスの場合はそれにとどまらず、第三項を立てる形での議論を進めるのだという(『慈善について』が重要なテキストのようだ)。つまり愛の「形相的対象」としての神そのものだ。人はみずからに害をなす敵を(あるいは単に隣人でもいいが)直接愛することはできないが、神への愛をもって間接的に相手を「愛しうるもの」と見なすことは可能であり、さらには、相手をそのようなものと見なさないことは罪深さへの共犯関係に陥ることになるのだ、とトマスは説く。またさらに、敵を愛するとは、相手のために祈るとか、事故などの緊急時に敵であろうとケアを施すといった、一般的な愛での意味であり、敵対する他者に個別に愛を示す必要はなく(それはそもそも人間には不可能とされる)、安寧さや慈善の継続を阻む障害が取り除かれさえすればそれでよい、とも述べているという。この観点は、敵対する者との問題を協議によって解決するための第一歩にもなりうるというわけだ。なんとも実践的な観点だ。論考によれば、この実利的な議論こそがトマスの特徴をなしており、ペトルス・ロンバルドゥスにはないものなのだという。
なんでそんなことを改めて思うかというと、折しも、マーク・ジョンソン「聖トマスは創造の教義をアリストテレスに帰したか」(Mark F Johnson, Did St. Thomas Attribute a Doctrine of Creation to Aristotle?New Scholasticism, vol.63, 1989)という少し古い論考を読んだから。これは、トマス・アクィナスの著作をおそらくは網羅的に眺めて、通説とは逆に、アリストテレスが創造説を抱いていたとトマスが考えているらしいことを浮かび上がらせた労作。もちろんトマスがそう端的に言い切っている文章があるわけではないらしいのだけれど、少なくともアリストテレスの神学が扱う神が、単なる不動の動者であるだけではなく、被造物すべての存在(第一質料も含め)を司っていること(付与していること?)や、あらゆる被造物がその神に依存していること、非物質的な実体や天体が恒久的存在であるとされてはいても、それらにもまた存在する上での原因(つまりは神)があると考えられていることなどが、様々な著書の要所要所から浮かび上がるのだという。なるほどトマスはかくも貪欲に(まあ、トマスに限ったことではないのだけれど)、アリストテレスの神学をも自家薬籠中のものとして取り込もうとしているようだ。たとえば『第一法令解説』(1261〜69)では、こう述べているのだという。「もう一つの誤りはアリストテレスのもので、彼はすべてのものは神からもたらされるとしているが、あくまで永遠的に、だとしている。また時間に始まりはなかったとも述べている。だが創世記第一巻には……(以下略)」。いつの間にか、アリストテレスの言う神はカトリックの神と同一視され、もはや他の神があった・ありえたことすら問題にはされなくなる。後にはカトリック信仰が連なり、それがすべてを席巻していく。