中世の黒人観

ピーター・ビラー「中世科学の中の黒人:その意味とは何か」(Peter Biller, The Black in Medieval Science: What Significance?, Proceedings of the Fifth Annual Gilder Lehman Center International Conference at Yale University, 2003)(PDFはこちら)という論考を眺める。これは西欧中世人の黒人観を多面的に描き出そうという研究のいわば中間報告。中世の文献や絵画などにおいて、黒人への言及・黒人の表象などは数としてもそんなに多くはないようで、研究は大変なようだが、それでも同論文からはすでにしてこの研究分野の面白さが随所に感じられ、個人的にはちょっと評価が高い(笑)。西欧において黒人が劣勢と見られるようになるのはいつごろからなのかがまずもって気になるところ。一般通念的には古代からの奴隷制度と黒人との関係が思い浮かぶところだけれど、中世初期においてはそもそも黒人は数が少なく、基本的に古代からのヨーロッパの奴隷というのは敗戦国の住民たちが主だったといい(これについては別の論文が参考になる:Cory Mckay, The Disapperance of Ancient SlaveryPDFはこちら)、必ずしも黒人ではなく、奴隷としての黒人が本格化するのはやはり初期近代以後ということらしい。

とはいえ、黒人そのものがいなかったわけではなく、とくにイスラム文化とも接する南欧一帯にはそこそこ見られたらしい。中世盛期にギリシアやアラブの学問が流入するとともに、たとえば自然学関連の文献にも、「エチオピア人」として肌の黒い人種を指す記述が見られるようになる。また、医学生の学ぶテキストに肌の色についての記述や説明がなされていたりした。アヴィセンナの『医学典範』などがそうで、暑い気候のせいで身体の潤いを失われるといった説明がなされていた。肌の色が白と黒に大別されるということが、こうしてまずは少数の学生たち(医学部、自由学芸部)の意識に刻まれていく。学生たちは都市部に散り、さらに13世紀には托鉢修道会の説教を通じて、そうした「違い」の見識が拡がっていく。すると次第に、西欧人の身体のほうが格上だという話が加えられていくようにもなる。フランシスコ会のバルトロマエウス・アングリクスの『ものの属性について』や、ドミニコ会のヴァンサン・ド・ボーヴェ『大鏡』などがそうで、さらにはアルベルトゥス・マグヌスの『場所の本性について』、ヴィラノヴァのアルノー(アルナルドゥス)『医学の鏡』など、そうした肌の色を正面から扱う著書も出てくる。この後者などは、14世紀初頭のモンペリエの医学思想において、黒人のイメージが降格していることを示しているという。

面白いのは、それでもなお、たとえば黒人の乳母の乳のほうが白人のものより質的に優れているという話(アリストテレスの『動物誌』からのもの)が、ペトルス・ヒスパヌスやマイケル・スコット、アルベルトゥス・マグヌスを通じて紹介されていること。後者二人では独自見解も付加されていて、アルベルトゥスは、黒人女性の身体がより熱を帯びていることを説明として挙げているという。ただしこの話もすぐに降格に結びついてしまうようで、身体がより熱を帯びているという同じ理由は、黒人女性のほうが性的に活発だという話にも使われている。こちらの話はギリシアやアラブの自然学・医学の伝統にはなく、西欧中世の独自の考案らしいとされている。とはいえネタ元はももしかするとプトレマイオスの『テトラビブロス』かもしれないといい、それを参考にアルベルトゥス・マグヌスが地域ごとの性行為の違いとして、上記の著書に記した可能性があるという。

聖マウリティウスの像(3世紀のテーベの指導者)、マグデブルク大聖堂