すべて皆、殻の中から

思うところあって、クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドクス−−規則・私的言語・他人の心』(黒崎宏訳、産業図書)を読んでみた。話には聞いていたが、なかなか面白い一編だった。なにしろほぼ一つの問題の検討だけで一冊が出来上がってしまっているのだから(笑)。その一つの問題というのは、「プラス記号が加算を表すというルールがあったとして、私(あるいは任意の者)が次回のプラス記号を別ルールで解釈しないという保証をどうやって取り付けられるか」というもの。この解釈ルールはいわば言語使用のルールの一つであるわけだけれど、厳密に考えていけばいくほど、確かにその保証は何も見当たらないことが明らかに……まさに一寸先は闇の世界。「規則は行為の仕方を決定できない」というウィトゲンシュタインのパラドクスはまさにそれだというわけで、クリプキはそれを様々な議論とそれらへの反論を通じて定式化していく。「個人」で考えていく限り、ルールに従う保証は決して見出されない。ではそのパラドクスを解決する方途は……そう、それは「個人」ではなく「共同体」に開くことによってだ、というのが後半の話になる。ルールに従うことを担保するのは他者の目、それも同じ共同体に属する他者の目だ。次回もまたプラス記号で加算を実行するからこそ、その行為者当人はそのルールを会得していると共同体から認められる。このことから、当事者以外に理解できない純粋な私的言語は存在しないことになり、必ずやその当事者は言語ゲームのルールに従わなければならない、ということになるのだ、と。

補遺においては、それがさらに「他人の心」の問題にまで敷衍される。たとえば有名な痛みの問題。「他人の痛みを自分の痛みとして感じる」ということは物理的にありえず、他人の痛みを自分の痛みとして想像することさえ実は困難かもしれないという(つまり文字通りに取るなら、自分が感じない痛みをもとに、他人の痛みをどう感じうるのかというのは大きな問題になってしまう)。そもそも人が他人の心を覗くことは不可能である以上、人は外的に他人を見て、その他人の行動・発話から三人称的にその他人が痛みを有していることを判断するしかない。そしてその際の行動・発話は共同体的に共有されていなければならない。痛みについても、「他人が痛みを感じている」という状況の理解こそが重要であって(その状況に自分を置けることが、他人の痛みの判断となる)、痛みの想像は後から来ると(クリプキによれば)ウィトゲンシュタインは言う。なるほど、ウィトゲンシュタインが行動主義的だと言われる所以はこのあたりにあるのか。うーん、それにしても、認知症のような一種の私的言語化に踏み込んでいる人(親だけど)を家族にもっている身としては、上のような行動主義的なルール解釈・状況解釈からこぼれてしまうケースに、どう対応すればよいのかが切実な問題として立ちふさがるのだけれど……。